一絃の琴《下》 宮尾登美子

昭和59年10月10日発行

 

40年の時が経過した。あれ以来、一絃琴に触れなかった蘭子だったが、終戦後2年して高知放送局から一絃琴をラジオで流す企画が持たれ、稲子と蘭子の2人に白羽の矢が当たった。81歳で苗も、公一郎も、また蘭子の夫も既に亡くなり、蘭子は稲子と生放送で一絃琴を演じた。稲子は初歩的な琴しか弾けなかったが、蘭子との腕の違いを聞き分ける耳を持つ者がいないのをさみしく思う。ラジオの反響は良く、財閥須田家から琴を寄贈された。次に人前で蘭子が演奏したのは母校県立第一高女の校舎新築祝いの時で、これがきっかけで一絃琴保存会とその後援会が結成され、白鷺会として再スタートした。蘭子65歳の時であった。だが、初回の集まりに集ったのは10人、1年もすれば3人だけとなり、音の出ない稽古が続く。それでもポツポツと琴が集まる中、昭和28年、県初の無形文化財として選ばれる。以来、たちまち賑やかとなり、新たな意欲が漲り、29年3月、今度は国の無形文化財として文部省から人間国宝の指定を受けた。苗は蘭子に塾を継承させることを拒んだが、我が道は正しかったと胸いっぱいに思いが溢れた。苗の演奏が孤独な趣きを深めてゆくのに比べ、蘭子は音いろが艶を増してふくらみ響きが響きを読んで独自の弾き方になっていく。が、その差は誰も知らなかった。認知は進んでも反対に技倆は完璧に近づきつつあり、日ごろは物静かな蘭子が琴に向かうと力の限り何かに向って怒りをぶっつけているかのように聞こえる、梁の塵を払うという力滾る音いろとなっていた。昭和42年、85歳の生涯を終えた。

あとがき

 高知の寺田寅彦邸で秋沢久寿栄の演奏の際に初めて一絃琴を聞いた筆者が12年間にわたって一絃琴に理解を深め書き続け書き直したのが本作。秋沢の後継者、稲垣積代に謝辞を述べる。

 

一絃琴という芸に生きた苗、蘭子という二人の女性の凄まじい人生が描かれている。一面、師匠と弟子としての関係でありながら、人には見えざる二人の戦い、葛藤が凄すぎる。これを描く筆者もまた凄い。