侠骨記 宮城谷昌光

1991年2月21日第1刷発行

 

侠骨記

曹劌(そうかい)は春秋時代の初期の人である。魯は文化国家としては第一級だが、軍事は二流だった。斉との確執を抱え、斉が最大の敵となった。曹劌は、臧孫達を訪ね、積年画きためた戦役図譜を差し出した。魯の邑の長勺(ちょうしゃく)を斉軍が通ると断言した曹劌を臧孫達は翌日参内させた。君は曹劌を右として使うと命じた。長勺で見事な勝利を収めた。

魯の将軍となった曹劌は次の戦でも勝利を収めた。曹劌は大夫となった。やがて斉から盟約の誘いが来た。曹劌は斉との盟約の場に剣を持って臨み、斉の桓公の喉元にぴたりとつけて、領地の返還を約束させた。侠骨の試練の場であった。

 

布衣の人

主人公は俊。目の見えない父、後妻の母、腹違いの弟がいる一家の生計は俊の双肩にかかっていた。ある時、羌由と出会い、西北にゆくがよいとの言を信じて、家族を連れて出発した。羊を一匹貰ったことで賊の一味に通じたと村人から誤解されたからだった。旅先で魚を盗んだと誤解されたかに思われたが、人々から君主が現れたと言われて君主になった。俊は再び旅を続けると、一族あげて故地に戻った。川があり、山を拓き、村が出来、邑になり、都(くに)になった。2年目、近くの国主の2人の娘が水浴に出掛けた。つばめの卵を口にした姉が子どもを生んだ。俊との間に出来た子で、契(せつ)といった。この系統はのちに湯王を生み、商王朝をひらくことになる。俊は羌由と再会し、都にのぼった。俊は土器を作って帝に献上した。帝の名は尭といった。再び村ができ、邑になり、都になった。俊は帝に木の器も献上した。俊は舜とも書かれる。三皇五帝舜帝その人の話。

 

買われた宰相

百里奚(ひゃくりけい)。生国は許。許に最も近い大国は鄭。許は魯に服属していた。百里奚の父は魯に売られたことを怨みに思い、百里奚は鄭と魯を滅亡させてやると復讎を誓った。斉に旅立った百里奚は名家の蹇叔(けんしゅく)と知り合いになった。百里奚は斉公(桓公)と管仲とのコンビになる富国強兵策の実施を目の当たりにすると、蹇叔とともに斉を離れた。百里奚に虞の仕官の口がかかった。蹇叔は反対したが、その言を入れなかったため二人は袂を分かった。虞が滅び晋公の前に引き出された百里奚は秦国へ送られた。秦の臣禽息は見識に比類ない百里奚に目をとめて秦公に推薦しようとした。ところが百里奚は脱走し、彼を探そうとしない秦公に至情を通じさせようとして地に頭をうちつけ、首の骨を砕いて死んだ。百里奚は姜族のいる東南の申という地に逃げた。秦公は五匹の黒い牝羊と交換して百里奚を楚人から手に入れた。秦公は百里奚と3日に渡り対話した。百里奚は蹇叔を推挙した。百里奚は秦の大夫となり、五羖大夫と名乗っていた。彼等は再会を果たした。蹇叔は上大夫(大臣)に任じられた。この時の君主・任好(じんこう)は、百里奚と蹇叔を左右にしたがえ、大国晋を滅亡寸前に追い込み、千里をひらいた。秦の中国統一への第一歩であった。任好は死後に繆公と諡さた。百里奚が宰相になったのは九十歳代だった。百里奚の政治の原理は「徳」であった。徳とは「許す」と同義語である。その四百年後、秦の始皇帝が中国統一を果たした。