孔丘《下》 宮城谷昌光

2020年10月10日第1刷発行

 

去来する人々  孔丘が教場に帰ってきた。子説の兄季仲孫何忌が入門した。孔丘は仲孫家に出向いて学問と礼を教えた。陽虎は不快感を覚え、いずれも孔丘を始末する意いを強く抱いた。

兄弟問答  孔丘に政治のことを尋ねて平凡な答えを聞いたと思った何忌は、孔丘を無能だと言い、子説は兄何忌が肝心なことを見ていないと言い争いになった。

陽虎の乱  季孫意如が亡くなり、仲由の主君が季孫斯に変わった。陽虎は季孫斯を監禁し、やがて季孫斯は陽虎の言いなりになり、仲子路を罷免した。

魯の実権  魯の陰の国主は季孫氏と言って良く、陽虎が実験を握った。

迫る牙爪  顔無繇の息子顔回の第一印象は魯鈍で、非凡を予感させるものはなかった。陽虎は孔丘に豚を送った。礼として孔丘は陽虎を訪ねる必要があった。陽虎に加担したとの噂を避けるために不在時を狙って訪ねたが、帰り際に陽虎と出会い、孔丘はいつかお仕えすると答えた。

公山不狃(じゅう)の誘い  陽虎を追い出そうとする公山不狃の策に乗りかけた孔丘だったが、仲由に切諫されて諦めた。孔丘は東門を出た後、北に向かい、斉の国に向かった。陽虎は費邑に向かったと思い、刺客を送ったが、孔丘は消えたように見えた。

虎と苛政  孔丘は斉の首都臨淄に着いた。晏嬰は吝嗇であると考えた孔丘は、上卿の高張を訪ねた。高張は孔丘らを受け入れた。

天命を知る  かなりの月日が経過した後、ようやく孔丘は斉の君主と面謁した。晏嬰は孔丘が定める例は細かすぎ、君臣と官民を惑わすだけであると見て、孔丘は晏嬰が国家を救うことはできても個人を救うことはできないと見た。陽虎が内戦に敗れ陽関の邑に逃避した。この時、50歳の孔丘は天命とはそういうことかと知った。

中都の宰  陽虎が斉へ亡命し、孔丘は斉を去った。晋の趙鞅(趙簡子)は中興の祖となり、その子趙襄子の時代に支配地が独立して趙となった。朝廷から孔丘は中都の宰に任じられ、冉有顔回を従者に加えた。仲由は季孫斯の家宰に招かれた。仲由から政治を尋ねられた孔丘は、先んずること、労することと答えた。

司寇  孔丘は、善政を目指した。善政の基本は司法が公平であること、課税が過酷でないことである。子産の政治を理想とした。昇進して司寇(司法と警察の長官)に任じられた。孔丘は魯を文化国家にするため、首都の曲阜の城だけ残し国内の城をすべて消すという大改革を実行しようとした。

兵術くらべ  不狃と叔孫輒は季孫家を潰そうと謀叛を起こしたが、孔丘の総指揮の下、仲由、漆雕啓らの弓矢の攻撃を受けて敗走した。

道の興亡  公斂処父(こうれんしょふ)は城壁の取り壊しは、晋や斉に蹂躙されるため拒絶した。季孫斯は抵抗勢力から仲由や孔丘を罷免し遠ざけるよう言われ、それを押さえきれず理想主義を頓挫させた。孔丘は再び魯を出た。

衛国の事情  孔丘らは衛に向かった。これが14年に渡る亡命生活の始まりだった。この時55歳で帰国は68歳だった。衛の霊公は制度の刷新や政治の改革を望んでおらず、廃頽に向かっており、孔丘を入れることはなかった。

歳月の力  顔回は実力を飛躍させた。商人だった子貢が入門した。子貢は顔回に及ばなかった。孔丘は晩年に60歳について耳順という一語に凝縮した。どんないやなことでも天が命ずることであれば順って行う。

受難の旅  衛を出ることに師弟は合意した。鄭に向かったが、途中で宋の国に変更した。

天に問う  宋の景公に謁見した後、陳に向かった。陳では賓客として迎えられた。次に楚に向かった。

大いなる休息  楚に向かう途中、葉公が楚都に行くのはやめた方がよいと忠告され、楚都行きを諦めた。魯に帰った冉求が孔丘の帰国を季孫肥に懇請した。原憲が魯の使者として孔丘を訪ね、亡命生活にピリオドが打たれた。68歳で帰国し、大夫となった。70歳となり、心の欲する所に従って、矩を踰えず、と言った。仲由は衛に向かい、善政を行った。仲由の死の2年前に顔回が先に死んだ。顔回は後世、亜聖と呼ばれた。73歳で死去した孔子は15歳で学を志した後、休んだことがなかった。死は孔丘の生涯における最初の休息であった。

 

孔子という人物が弟子とともにいかに生きたか。その中で自ら経験し、孔子が語ったことを弟子が『論語』にまとめた、という構成で仕上がっています。論語を読むと、登場人物が多いので、この『孔丘』を読んだ後に『論語』を読むと、きっと背景もそれなりに理解したうえで読めるような気がします。久米旺生の『論語』の書写がまもなく終わり、今度は金谷治の『論語』を読む予定にしているので、それが大変楽しみです。