孔丘《上》 宮城谷昌光

2020年10月10日第1刷発行

 

あとがきによると、著者は、50代に一度、史料を蒐め、文献を読み、孔子年表を作った。が小説にするのは無理だと諦めた。60代になって、既に整えた資料にあたったが、やはり無理だと再認した。『論語』が重すぎて、『史記』の「孔子世家」が軽すぎた。70歳を過ぎて、失言があり失敗もあった孔丘という人間を書くのであればなんとかなるのではないかと肚をくくり、書かなければ死ぬまで書けないと自分を鼓舞して書いた。とあった。

 

盛り土  孔丘が3歳の時に父は亡くなった。その後、母は孔丘を残して孔家を去った。母は武勇を憎んだ。そこで15歳で、武人にはなるまい、学問で身を立てるべく懸命に学ぼうという志をもった。24歳の時、母が逝去した。

喪中の光明  孔丘は下級役人の穀物倉の出納係(委吏)になった。身長2メートル16センチの長人だった。父と同じく膂力を持ちながら書物を蒐め、葬祭の礼法を究明しようとしていた。秦商が最初の弟子となった。公平な勤めぶりは評判となり司職の吏(牛馬の飼育係)に任じられた。季孫邸の慶事に孔丘が招かれた。

陽虎  孔丘は異相で、蒙倛の如し。陽虎は孔丘を追い返し、孔丘は陽虎を怨みに思った。祖先は宋の貴族だった。地に帰った母から服忌を怠った孔丘を叱ったと感じた。

礼と法  3年の喪に服した後、孔丘は曲阜の府に登用され、祭祀官の下に配属された。詩を暗誦し、これらから「思い邪無し」を学んだ。礼の意義、礼を守ることは貴族の不当な法から官民を護ることになる、事を学んだ。

郯君の来朝  郯君の来朝の際、孔丘は、学んだ詩の知識を生かして、郯君の質問にすらすらと答えた。郯君に気に入られて翌日の宴会に本来なら参加できない孔丘は初めて君主と重臣の宴会を自分の目で見た(忤視した)。郯君の話を耳をすまして聞いたのは魯君と孔丘だけだった。

詩と書  郯君から目をかけられたのが孔丘だけだったため、同僚は小腹を立てた。孔丘に友はひとりもいなかった。老司書から『尚書』(『書経』)を借りて書写を始めた。「惟斅学半」の語句に接した孔丘は、この言葉通り、人を教えて己も学ぶという道を択び、官吏を辞めた。

儒冠と儒服  30歳で孔丘の妻は離婚を決意し11歳の鯉を置いて実家に帰った。孔丘は教場を建て、大きな脇のあいた儒服の原型となるものを着用した。陽虎が丙に孔丘が危険人物であれば始末せよと命じた。

水と舟  丙の家に出入りしていた漆雕啓が孔丘に近づいたが、逆に入門した。

上卿の憂愁  仲孫貜が側近の亢竿に孔丘の実像を調べさせると、未完の巨人であり、十年後に師事するのがよいとのことだった。

卞(べん)の剣士  仲孫貜は何忌と説(閲)の2人の息子を孔丘に託して師事させ礼を学ばせるよう遺言した。卞から来た仲季路、子路が孔丘の教場に向かうようになった。

王子朝の乱  孔丘は周の文化を学ぶため周都に行くつもりだったが、周王室で王子朝の乱が起こり、行けなかった。

季孫氏の驕り  国民の範となるべき季孫意如が僭越を行い、公族と貴族の権力争いが続いた。

琴の音  公室と季孫家の争いは続く。孔丘の下で学ぶ子路の成長ぶりを漆雕啓は推知した。

魯国の苦難  昭公は魯に帰りたかったが、自ら戦わず斉軍を頼るばかりだった。王子朝の乱が終息し、孔丘が周都に赴くことが可能になった。

成周へ  孔丘が周都に向かった。子説は一日違いで入門出来なかったが、すぐに追い掛けた。

周都の老子  子説は孔丘に追いつき、入門を許された。周都の老子を訪ねるが、推薦状がないので入門を許可されなかった。子説が門内をくぐった。

留学の日々  子説が自らの地位を語り、孔丘を老子の下で就学させたいと述べると、子説の説述を関心した老子は入門を許可した。孔丘は子説に三百余の詩を覚えさせた。老子は王室文庫の司書だった。孔丘はここで学友を得た。

老子の教え  孔子は老年になってから過去の年齢を特徴づけた。15歳で学問に志し、30歳で教場を建てた。40歳で「不惑」という語を用いた。周王朝の文化が最も優れていると確信した。3年後、老子は旅に出、孔丘は魯に戻る。晋の朝廷は季孫意如を招いた。

それぞれの帰国  晋の取り計らいで意如と和解するつもりになった昭公は、周囲の愚かな従者から意如を殺せとばかりに攻め立てられ、悶死した。6年の留学を終え、孔丘は魯に戻った。