太公望《下》 宮城谷昌光

平成10年5月20日第1刷発行

 

謀叛が発覚し、受王の粛清が始まった。鬼公の救出に向かった望だったが関所で止められた。その最中に継が戻ってきた。三公は沙丘で誅殺された。鬼公と九公は醢(かい)に、顎公は脯(ほ)と、極刑にされた。周公は捕えられ獄に入った。望は彪と再会した。彪は最愛の人を受王に殺された復讎を果たすため商に潜り一人で受王殺害を狙っていた。望は羌(きょう)族出身を明らかにし邑を造り邦を治めたら民族の優劣をなくし公平な政治をしたいとの自らの理想を大勢の前で宣言した。周父子はそろって捕縛され、臣下は将兵と戦って亡くなり、嫡子の行方も分からなくなった。周の重臣を救った望だったが、小子旦も周公の弟・南宮括も望に労いの言葉をかけることなく薄情だった。獄に繋がれていた周公は沈黙を続けた。嫡子の伯邑考は煮殺された。周は周公の次男の発が議長を務めて対策を練った。発は後に武王と呼ばれる人物である。発は望を知らないため信用できないが賭するしかなかった。望は妲己に会った。光が感じられた。受王は妲己に神力があると喧伝して祭祀の職を空洞化し、王朝の体制を変革しようとしていた。望も自分が妲己を利用していると思うと、ほろ苦さを覚えた。大邑商で周公が捕まったのは周公の側近の一人崇候による讒言が理由だった。望は西方の諸侯に訴えを起こさせれば、費中はこれを取り上げて自らの過失を償う行動を取ると予測した。費中のような能吏を王宮の外から操る望に蘇侯は寒気を覚えた。蘇侯は費中に近づいて西方の斡旋者となった。望は目に見える敵だけでなく見えない敵とも戦った。至上の策とは、策とは見えぬような策をいう。望の下に2人の実子が帰ってきた。周と商との戦場の一つに何族の支配地がなる。何族が周につけば、商は舟を使うことができない。小子旦はそれがわかるので、何侯には終始鄭重だった。周公が獄から出された。周公が崇候の讒言で無実の罪で投獄されたとの噂が流れた。噂の出所を消すために望は肉屋を閉じた。周公は商の東夷征伐の軍が十万と聞いて戦慄した。周軍は一万五千である。双方が総動員をかければ、商が50万、周が10万である。これを打ち破るには望しかいなかった。有名な太公望と周王との邂逅の場面は兵家が想像し。『六韜』と言う兵法書の冒頭を飾った(釣りをしている太公望を周王が発見した)。58歳の周王の目は30歳を僅かに過ぎた壮年の望を捉えた。望は周王に戦いの実例を見せた。50の望の軍が150の周の軍に勝ったのを見て周王は望に任せた。周軍の突風の様な攻撃で商の牙城が崩れた事実は受王の支配力に深刻な打撃を与え、商王朝崩壊のきっかけになった。望は18年前に見た喬木に近づいた。喬木の下には剣はなく白蛇が出て来たが、不思議な巫女から剣を授かった。望は釣竿を持って召に向かった。召は周王と結ぶことは拒絶したが、羌族と結び付くことの可能性を仄めかした。周王の崇侯一人を殺す戦いを見た諸侯は周の軍門に下った。数年のうちに商との一大決戦が予想された。周王朝直前に周王が崩御し、望は目の前が昏くなった。崩御を隠し即位せず、太子の威光を天下に知らしめるには召伯を臣従させるしかない。召伯が薨じて内々で周召同盟が成った。太子発は継を正婦に迎えた。望は不公平のない邦を樹てるのを理想とし、その理想を「斉」と一言で言った。中国で適材適所を初めて行ったのは太古の宰相伊尹であり、望の脳裏にはこの人物があった。伯夷叔斉が太子発に直言し、これが入れられず餓死したのはこの時とされる。長い商王朝を終わらせる出師が始まった。宗教的呪縛から解放する格別な意義を持つ出師だった。周の武王に召公が臣従する形を諸侯に見せた。周軍四十五万。商軍七十万である。最後に彪が戻って商軍と戦った。受王は焼死した。武王は商都を商の王子に治めさせた。武王の左右には常に周公旦と太公望と召公がいた。武王は箕子を呼び寄せて、数百年続いた商王朝が何故一朝一夕にして倒れたか問うた(『書経』の「洪範」(こうはん)に箕子の答え「一に五行」がある)。武王が崩御すると、菅叔鮮と蔡叔度が離反し、これを捕らえると、次に武庚が叛乱を起こした。革命後、最大の危機を迎えた。その時、邑姜(継)が幼い成王と東方に征伐に出向くと言い、西方には宗周と召公が向かった。反乱軍を押さえ、望は逢尊と再会し、営丘に自らの族の邦を樹てた。「人々が斉しくす召す」邦である。

 

伝説に彩られた太公望呂尚を描き切った作品でした。見事というほかないです。