太公望《上》 宮城谷昌光

平成10年5月20日第1刷発行

 

望は5人の幼い子を連れて火の中を逃げた。望の胸には商王を殺すという復讐の炎が立っていた。商王「帝乙」が崩御した。死んだ王のために異民族が捕られ、殺され、殉教者とされた。帝乙の王子が受で、後に紂王と呼ばれた。人狩りのために、箕子、祖伊、神足の飛廉を配下に置いた。望は羌族に生まれた。羌族は大勢力を作ろうとしない。そうすれば商帝国となんら遜色のない勢力圏を築けたが、彼らは平等の思想を持ち、利益の分配において公平を期そうとするため、個人の力の優劣も身分の上下もなく、強烈な指導者を産まない。侵略の思想もなく戦闘能力は低かった。望はのちに「呂望」と呼ばれる。羌族が襲われ、望を含め6人の子が生き残った。彪、継、班、呉、詠がいた。この6人が後に斉という国を建て、呂氏の繁栄の基を築く。望は北の弧竹という邑に向かっていた。望は5人のために水や食糧を求めて徘徊し、黄金の喬木がある場所で不思議な女たちから食糧を与えられた。辮髪の羌族の旰に出会った。馬を多く飼っていた多馬羌と呼ばれるこの男の族には舎が500程度、2500人以上はあると思われた。旰の下には仍、員がいたが、商に差し出される直前、皆を連れて逃げた。望は常人では打破できない苦難に数知れず遭遇するが、幸運にも助けられ長寿を勝ち得る。その奇蹟に満ちた生涯の一端がここにあった。次に望の前に現れたのは鬼方の主だった。鬼公は望が心機に優れた少年だと見抜き、望らを迎え入れた。鬼方は西北の大族で、東北の大族の土方に匹敵する勢力を持っていた。西北の王の鬼公に望は見込まれた。望は鬼公を尊敬した。望は父母を商に殺されたことを忘れておらず、羌族だけでは戦えず、商に対抗しうる勢力があることを知った。鬼方、土方、そして箕子という三英傑の会談の場を望は傍で目撃した。望は弧竹へ土公に連れて行ってもらう事になった。鬼公の下に戻れば、鬼公に仕えることを誓った。望は鬼公と別れる前に捕虜にされた員を貰いたいと願った。弧竹には山岳の神を祀る伯夷がいるという。弧竹に到着し、望は3年経てば鬼方に戻るつもりだった。望は山に招かれ、老人は望に剣を見せ、剣を学ばせた。次に箕子を殺さぬという約束で文字を学んだ。望は19歳、班は15歳となった。望が山にいる間、彪、呉、詠がいなくなった。20歳になり、弧竹を後にした。望は鄭凡(ていはん)と出会い、鄭凡から新しい町の新邑を見に行かないかと誘われた。鄭凡は道々で望に、鋸橋(きょきょう)と呼ばれる巨大な倉や貨幣を教えた。望は商王朝を倒すために新邑にいくと豪族の逢尊に打ち明けた。望は逢尊の娘と結婚した。