生きること考えること 田中美知太郎

2002年10月20日発行

 

・ひとは論理によって考えるのであって、論理のなかから何かを考え出すのではない。また他方、ひとは現実のなかから自由に前提となるものを取り出すことはできるが、現実に副って推理すべきではないであろう。かくのごとき現実追従は、奴隷的思惟にほかならない。それにしても、強要としての哲学が、自由に考えることをこそ人々に教えなければならないのに、その任務を果たしていないのは遺憾なことだと言わなければならない・・人々は自分でものを考える苦労を嫌って、何でもたちまちのうちに解明してくれるような哲学を求めた。流行の哲学は、これさえあれば、ほかに何も考えないですむような工夫ばかり教えようとしたのである。その結果、哲学の勉強がかえって思想の自由を失わせることにもなった。わたしたちは哲学的体系を何か一つ呑み込んで、いろいろな事柄を、その哲学体系の用語で、片言なりとも喋ることができれば、それで満足するような人たちに何も期待することはできない。哲学の思惟は、法律の適用に頭をはたらかせる属吏の思惟ではなくて、法律が世のため人のためになるかどうかを吟味する、立法者の思惟なのである。思想の自由なくしては、哲学は不可能である。そしていかなる暴政の下にも、哲学だけは思想の自由を保持しなければならない。自由に考えることは、その義務であり、徳なのである。そしてかく自由に考えることによってのみ、それは国のため、世のため、人のために尽くすことができるのである(「自由に考えるということ」)

・わたしたちは世代の相違、共同経験の相違などで、相互に理解できないものを感じたりしているけれども、古典は時代の相違をはるかに超えて、その難解な特殊性にもかかわらず、わたしたちの理解と共感に訴えるものをもっている。経験の特殊性の制約にもかかわらず、わたしたちの相互理解と共同とは、どのようにして実現されるのかというのがわたしたちの一つの疑問なのであるが、上記の事実はこれについての有望な暗示だといっても、あながち我田引水をとがめられることはないであろう(「経験の枠を越えて」)。

 

独特な思考形式で、えッと思う箇所もあるが、なるほどなあ、と思わず唸る箇所もある。なかなか味わい深いものがありました。