叛骨《下》 津本陽

2016年9月20日初版発行

 

帯封「政府からの弾圧を乗り越え、外務大臣として日本を牽引した風雲児の後半生に迫る!陸奥宗光の知られざる生涯、ついに完結!」「『天地の間に一定の法則があることを信じれば、勝利はついに浪人が獲得する』 宗光は明治政府の指導者として、伊藤博文と相携え、日本を西欧列強の植民地に転落させず、産業革命による国力の懸隔を埋め、議会政治が軍国主義により窒息させられるまで、国力発展を継続させる基盤を築いた―。(文中より)」

 

・岩倉はイギリスのように、議会が国政の全権を持つか、プロシアのように議会は立法権の成立、改廃のみにかかわり、行政は皇帝の権利とするという形式を比較し、プロシア方式をとった。満期で出所した宗光は伊藤の勧めにより遊学に出掛けて、イギリスで責任内閣制が出来上がるまで二世紀かかった、日本では責任内閣制を採用することは難しいとのケンブリッジ法律学の講師をつとめる弁護士のワラカー博士の説明を聞いた。

・第二次伊藤内閣で外相に就任した宗光は不平等条約廃止に進み出し、日本・メキシコ条約のうちで対等相互主義によっている条項を採用して、遺漏のない対等条約の相手として英国を選び、英国側と交渉し、議会解散を経たり日清戦争会戦前夜の状況下で、ようやく条約調印にこぎつけた。

・威海衛で大勝した日本は西欧列国から尊敬されると同時に嫉妬される対象となった。下関条約遼東半島の割譲を受けた日本に対し、露、仏、独の三国が異議を申し立てて、日本は遼東半島を清に返還した。宗光は、進むことのできる所まで進み、止まらざるを得ない所に停止した。