2016年9月20日初版発行
帯封「盟友・龍馬の死と不遇の青年時代・・・。『近代日本を創った男』の怒濤の前半生を描く! 歴史小説の巨匠が挑む渾身の長編最新作!」「『攻めるべき敵は攻め、助けるべき者は助け、わが身の忠勇と志をつらぬけ 明治維新は全国日本人のためにおこなわれた革命で、藩閥がそれによってもたらされた権利義務の成果を独占すべきものではないという宗光の意見は、蛇蝎のような薩長勢力に正面から一撃を加えたものであった─。(文中より)』
・伊予国大州藩船160トンのいろは丸で大儲けするつもりの龍馬は1867年4月19日長崎を出港し5日目の23日深夜、備中国の沖合で紀州藩軍艦明光丸887トンと衝突し沈没。原因はいろは丸が右へ船首をかわしていなかったためであったが、陳僕の海事審判で龍馬は後藤象二郎、木戸孝允、西郷隆盛、五代友厚らに助力を求め、紀州藩に圧力をかけ、その結果、審判は確証なしという結果となり、9月10日に打ち切られた。その後、土佐藩側は紀州藩を恫喝し、8万両以上の賠償金を支払わせることとした。三浦休太郎はその怨恨を晴らそうとして龍馬を暗殺した。彼は事件のときいろは丸に乗っており事情を詳しく知っていた。と陸奥陽之助は思っていた。
・陸軍卿として国軍の基礎を作ったとされる山縣有朋は表面上の責任者にすぎず、日本陸軍の徴兵制度を確立させたのは津田出である。西郷隆盛は津田を首相に推薦した時期もあったほどだが、和歌山県内士族との交際に配慮がなく、権力をほしいままに振るった、私財を蓄えたとされた。宗光も同様に叛骨稜々たる人物で神奈川県知事に任命されると和歌山藩の大兵団を放置し新しい職場に身を移した。
・大隈は木戸と大久保の仲が悪いことに目をつけ、大久保にすり寄ったが、宗光は木戸に近づいたが、相手の選び方を間違えたために大隈に出し抜かれたと考えた宗光は、退官を決意して「日本人」という論文を発表した。薩長土肥に賞典禄を与えるのは当然であるが、官職を与えるのは間違っているとして藩閥政治を批判した。論文を木戸に送って官を辞職した。
・板垣の背後で陸奥は動いた。板垣が去った後も宗光は元老院で孤独な立場に置かれ、元老院幹事、仮副議長を続けていた。立志社員を中心とする政府転覆契約に関わったため5年禁獄生活を送ったが、この間、将来の発展にそなえる読書、思索を行った。宗光はベンサムとともに荻生徂徠の著書を身辺から離さなかった。彼らに共通しているのは徹底した合理主義である。