アームストロング砲《下》 司馬遼太郎

2022年5月20日発行

 

斬ってはみたが

 肥後高瀬の郷士で、江戸の剣客仲間で名の知られた鏡心明智流の上田馬之助は、桃井道場の師範代をつとめているが、どこか一本足りず、試合になると必ず負けた。ある時、紅屋の松吉を連れて小料理屋「松田」に入って2階に上がり、酔った天童藩剣術指南役と弟子の藩士2人の隣に座ったが、盃を受けない等と因縁を付けられ、松吉を連れて階段を降り店を出ようとした。すると、馬之助を斬り付けてきたので、馬之助は咄嗟に2人に刀を払うと2人とも絶命した。このことが話題となり、毎日剣客が訪ねてきたほか、ある時馬之助が松田を訪ねて、あの時剣をどう抜いたのかいまだに分からないので、所作をやってみたがうまくいかない。ところが再演してくれていると周囲が誤解し、師匠から君はついに剣は分からぬと言われてしまう。師匠は、斬った瞬間、何かが見えたが、見えたものを見失った、恐らく拾えまいと見ていた。結局、大事なものを落としたまま、落としっぱなしだった。

 

大夫殿坂

作州津山藩士の井沢斧八郎は、亡き兄の後を継いで大坂蔵屋敷詰めの役人としてやってきたが、兄は何者かに斬殺されたと兄の若党から聞かされた。蔵屋敷留守居役を始め腐り切っていた。自身も命を狙われた。留守居役からようやく新撰組に斬られたと聞いた。しかし奉行所新撰組を怖れて無力だった。斧八郎は脱藩し遂に新選組の浄野彦蔵が兄を斬ったことを突きとめた。小磯目当てに風呂に来た浄野彦蔵が、玉出の滝なる垢すりを小磯が兄にしていた場を見たことで激情して兄を殺害したという馬鹿々々しい事件だった。斧八郎は詳しいことは知らないまでも敵討と相打ちなって果てた。

 

理心流異聞

若くして天然理心流の免許皆伝を受けた沖田総司は、新選組の中では少数の武士の出だった。近藤勇の商売仇の松月派柳剛流の剣客平岡松月斎と対決せよとの暗黙の指示を受けて道場に乗り込むが、初勝負では足を撃つことで体勢を崩す柳剛流の作戦に嵌って決着がつかなかった。新撰組が結成されて京に上り、桂小五郎らしき人物を見つけて近づいた。桂は江戸土佐藩邸で催された諸流武術仕合で勝ち残り最後に龍馬に敗れた剣士だった。すると桂を庇って平岡が現れたが、沖田は以前の平岡との戦いで攻略法を見つけ、間一髪勝利した。

 

アームストロング砲

 佐賀の老公鍋島閑叟(かんそう)は、日本最初の製鉄所をつくり、洋式銃器を国産し始め、領内で海軍所をもち、造船産業を起こし、国産の蒸気軍艦の製造に乗り出すなど、日本唯一の工業主義者だった。アメリカの南北戦争で使われ出した新兵器はまだ砲身破裂を引き起こすものだったが、英国の技術者が難点を克服したとの報告に接した。秀島藤之助は咸臨丸の乗員としてアメリカに渡り、帰藩後は閑叟に「これからの世界は英語国民が主役になりましょう」と献言し、閑叟はその一言で蘭学をやめ、藩の洋学を英学にきりかえた。秀島は冒険商人グラバーを訪ね、アームストロング砲を積んだフリゲート艦に乗り込むことに成功し、アームストロング砲の実物を見ることが出来た。アームストロング砲は、通常の砲の十倍の発射能力があった。最大射程を持つといわれるカノン砲でさえせいぜい2800mなのに、アームストロング砲は小型でも4~5000mだった。秀島はグラバーを通じてこれを買い求め、三門が佐賀藩の港に着荷した。秀島は12万ドルで購入した蒸気艦船に精錬方の田中儀左衛門と乗り込んで試験運転に参加したが、日がたつにつれ様子がおかしくなり、ある日雷鳴の衝動から発狂し、“田中はアームストロング砲の製造の妨げをなし、エレキテルの原理を用いて雷鳴をよび自分を迫害しようとしたので討ち果たした”などと述べて田中を斬り殺し、秀島は座敷牢に入れられたが、減知、改易はされなかった。秀島の研究は引き継がれ、試作砲は完成した。英国、フランス、プロシア以外に後装式鋼鉄砲が作りえたのは佐賀藩しかいないとグラバーをして言わしめた。鳥羽伏見の戦い薩長が幕軍を敗走させた後、閑叟は京に上り、薩長佐賀藩を味方に引き入れ、アームストロング砲の威力は上野山中の吉祥閣を吹っ飛ばし彰義隊を潰滅させた。