酔って候《下》 司馬遼太郎

1998年9月10日発行

 

伊達の黒船

宇和島藩に嘉蔵という手先の器用な職人がいた。提灯のほかに、かんざし細工、うるし細工、彫刻ものいっさい、雛御殿の製作、雛人形の修理、五月幟の仕立て、鎧カブトのつくろいから仏像の製作まで引き受けた。ある日、嘉蔵は、清家市郎左衛門から、浦賀沖にやってきた黒船と同じ船を藩主が造ろう、それを家老の桑折左衛門に相談すると、桑折は提灯屋嘉蔵ならやれる断言してしまったと伝えられ、嘉蔵が蒸気軍艦の建造に関わることになった。藩主伊達宗城は幕末四賢候の一角を占め、蘭癖家とも言われた人物だった。嘉蔵は長崎に行き、周囲から馬鹿にされながら、3度にわたり長崎と藩を往復し、実際に蒸気軍艦を見たり乗船して図面を作り、蒸気機関の原理を理解していった。機関の製造担当に任ぜられた嘉蔵は自らの意見が取り入れられず鋳物造りに周囲が拘ったため初回の試作品は失敗した。同じ頃、薩摩藩も蒸気船の建造に着手しており、両藩はどちらが先に蒸気船を完成させるか競争した。二度目は嘉蔵の要求通りに作業が進められ、遂に成功し、大村益次郎が設計した船体に装着して汽船として完成し、沖上での試運転も成功した。その直後、それより数日早く薩摩でも蒸気船の試運転に成功したとの話が伝わってきた。進水後、苗字を名乗ることが許され、前原嘉市と名乗った。

 

肥前の妖怪

鍋島閑叟(かんそう)は若い頃、江戸から肥前佐賀に帰る途中、商人群が座り込みをして、行列が動かない経験をした。理由は、藩が米や酒、みそ、醤油などの日用人の代価を払えなかったためだった。このため、天下を動かしているのはもはや士農工商の階級ではなく、金が動かしていると思い、以来、藩財政の建て直しに力を入れた。公称36万石から開墾を重ねて61万石にまで増やしていたが、藩士が多すぎたため密貿易で巨利を博した。ペリー来航より数年前に国富充実し、長崎砲台の大工事を始め、西洋銃陣を研究し、反射炉を始め、日本史上最大の様式要塞を完成させた。時は四賢候が斉昭忠臣に一勢力を作り、京では公卿が京都政界を作り、安政の大獄から桜田門外の変が起きる狂瀾時代の中、閑叟はこれらの運動に関わらない。しかし閑叟は「いまの世に佐賀藩士だけが武士である」といった。時勢を勤王亡国、佐幕亡国と見ていた。薩長同盟成立後、薩長土肥となり、海軍力の弱い官軍に艦隊を与え、施錠銃と後装砲、アームストロング砲の威力をもって戊辰戦争で勝因を作った。藩校弘道館藩士の子弟全員を6,7歳で就学させ25,6歳で卒業せしめたが、全員大学教育を与えた。これほど長期間の義務教育を施した藩は肥前佐賀藩しかない。もっとも大隈重信はこの強制就学を憎悪し、閑叟のやり方を罵倒していた。