2022年5月20日発行
薩摩浄福寺党
浄福寺に集まった乱暴者の中でも無類の乱暴者の肝付又助は薩摩人だったが、長州憎しのあまり敵のはずの会津と薩摩が手を握ったことが気に入らず、新撰組や会津藩士を捕まえては事件を起こしていた。ところが薩摩が長州と密かに手を組み、西郷は今日から又助に町歩きをやめよというが、又助はその意味がわからなかった。又助はおろか島津久光も薩長同盟は知らなかったのだから無理もない。結局、又助は新撰組巡察隊の大石らに斬られて死んだ。無意味に死んだ典型だった。その後、薩摩は会津と断交し鳥羽伏見の戦いが1年後に起こるが、このような無名無価値の死の群れは時代を煮え詰まらせていく薪の一部になった。
倉敷の若旦那
大橋の若旦那敬之助は、正義感が強く苗字帯刀が許された大町人だったが、業物を買い求めて、下津屋の旦那に天誅を加えると言い出した。密輸出の証拠を集めて下津屋に一度は罰が下ったが奉行が変わり無罪放免とされたからだった。目的を達すると長州へくだり、立石孫一郎と名を改め第二奇兵隊の銃隊長となった。長州藩が幕府に降伏するのではないかとの虚報が飛び交い、酔えば暴発あるのみという敬之助は、倉敷を奪うと言い、皆を驚かせた。倉敷は中国地方の最も重要な幕府機関だったからだ。敬之助は復讐心から代官所を襲ったが代官は広島に出向中で不在だった。長州藩はこの事件に頭を悩まし、彼等を賊徒と規定しそれを内外に宣伝した。浅江港に戻った敬之助だったが長州藩士に斬り付けられて死んだ。賊名だけが残った。
五条陣屋
陣屋と呼ばれる五条代官所は南大和七万石の幕府領を支配し、代官の下には手付、手代がいた。手代の木村裕次郎は、仕立屋の芳蔵、後に乾十郎と名乗った男が五条に戻ってきたのを見た。ある時代官から呼ばれると、乾を知っているかと聞かれ、乾が暗躍していることを知った。乾は京で土佐浪人と天誅組を名乗り五条陣屋を襲い、代官はじめ手付、手代、そして祐次郎の首を晒した。乾は蛤御門の騒乱の最中に六角獄で斬られた。
壬生狂言の夜
目明しの与六が、家内に勘違いされながら、浪人安西格右衛門を夫に持った隣のお茂代を頻繁に訊ねた。安西が斬り殺されて家まで死体を届けたのは、新選組副長助勤兼柔術師師範の松原忠司だった。松原は、お茂代の歓心を買うために、死体を運んだのではないかと疑ったのは壬生浪の土方歳三で、その探索方を命じられて松原を調べた結果として、松原が安西を斬った仲間に新撰組の野田治助がいたことを松原に告げる。ところが直後に野田は松原の仲間ではなく、野田こそは土方から命じられて松原を密かに葬り去ろうとし他のではないかと思い直す。松原は真相をお茂代に打ち明けたがお茂代はとっくに気づいていた。しかし土方は2人にねつ造した嘘を流して2人は心中した。
侠客万助珍談
鍵屋万助は11歳からばくち打ちで14歳の時に身がわり屋として拷問を耐えて大儲けした。大坂に特別治安組織が出来て万助も侍の仲間入りしたが時勢が逆転して堺は土佐藩が占領行政した。堺事件が起き外交問題になったため20人が切腹となった。次々と切腹するうちに残り9人は命が助かった。宝珠院の中に墓11基が設けられたが、参詣人が殺到し露店が並び興行が成功し、立案者の万助は賭場を開いて大繁盛してひと財産を作り上げた。