酔って候《上》 司馬遼太郎

1998年9月10日発行

 

酔って候 

藩主の山内豊惇(とよあつ)が急死し、容堂が土佐24万石の太守になる。酒好きの山内容堂漢詩にも才能があった。藩主となった後、将軍継嗣問題が起こり、紀伊徳川慶福を推す井伊直弼と、一橋慶喜を次期将軍に推す容堂、島津斉彬松平慶永らが対立する。最終的に慶福が14代将軍家茂となり、容堂は謹慎、家督を養子の豊範が継いだ。容堂は吉田東洋を側につけ、土佐の実権は握り続けた。容堂は、家康より一豊に土佐24万石に封じられたことに感謝の気持ちを抱き続けていた。家康は“戦場の槍働きなどたれでもできる。山内一豊の小山での一言こそ関ヶ原での勝利をつくった”と述べ一豊の功績を買っていた。容堂が京に出ている時に土佐勤王党の動きが目まぐるしく動いた。上士の「臨時組」と下士の「五十人組」のあつれきは日に日に凄まじくなり、容堂は東洋暗殺者の捜索を板垣退助に命じ、下士勤王党の首領武市半兵太に切腹を命じた。容堂は討幕でなく公武合体論者だったが、後藤象二郎から大政奉還案の献策を受け、これを15代将軍徳川慶喜に伝えて大政奉還を実現した。京都御所の小御所会議で議論された慶喜の辞官納地について、容堂はこれを防ぐため、慶喜がこの場にいないことを舌鋒鋭く迫り、慶喜を擁護したが、思わず「幼冲の天子」といった一言で岩倉具視に追及されて休憩時間を挟んでいる最中に西郷が「こういうときには唯担当一本あれば事が足る」といったことが容堂の耳に入り、再開後の会議では、討幕派の岩倉具視と大久保の独壇場で議事が進み、押し切られてしまった。酒の飲み過ぎで脳溢血で46歳で亡くなった。ちなみに容堂は坂本龍馬の名前も中岡慎太郎が一緒に刺客に殺されたことも知らなかった。2人を失い土佐が薩長から孤立したのを知ったのは維新後であった。

 

きつね馬

島津久光は、斉興の5番目の子として生まれ、8歳の上兄に島津斉彬がいた。斉彬は三百年来の頭脳といわれ、幕府要人、諸侯、江戸学者、阿蘭人までそう評判し、胆力もあり、それを柔和な人柄でつつむ大秀才だった。斉彬は造船所をつくり大型砲艦12隻、蒸気船3隻の建造にとりかかり、西洋式紡績工場、反射炉二基、溶鉱炉一基、紅ガラス製楝罐四基、水晶ガラス用一基、板ガラス用一基、鉛ガラス用数基、鉄工所一棟などをつくり、電信、電話設備をつくった。ところが井戸水にコレラ菌が混入していたことから志半ばでこの世を去った。斉彬の遺言で、次期藩主は久光の子で19歳の茂久となり、藩の実権は久光が握った。久光は、下級藩士大久保利通を登用した。大久保は“おのれの志を実現しようとすれば、権力者にとり入らねばならぬ。志さえ高ければ、それを恥とすべきではない。自分は往昔、藩父の久光公に取り入り、自在に志をのべた”という人物だった。低い身分の大久保が登用されたのは、久光が好きな碁を習い、側近小松帯刀を据え、帯刀を通じて久光を勤王化させ、因循姑息な慣習を一掃して大いに人材を抜擢するという人事革命を断行させ、ようやく小納戸役になることができた。32歳のことであった。藩兵を率いての光久上洛は朝廷を頼もしがらせるためで、幕政改革以上の意図はなかったが、各地の浪士達は倒幕と受け止めたことから、大久保は西郷を嫌う光久をして何とか起用させて沈静化を図ろうとした。が西郷嫌いの久光は西郷の言うことを聞かず島流しにして藩兵を率いて上洛した。京の三卿から浪士達の鎮圧を命じられた久光は、寺田屋に集まった浪士や討幕派の薩摩藩士を弾圧した。江戸に入った久光は松平春嶽と会い、老中には自分が子から家督を譲り受けたいと申し出た。大久保はあきれ果てた。結局、春嶽が政事総裁職慶喜将軍後見職にすわるという幕政改革が行われたが、当の両人は迷惑至極であった。久光が江戸から薩摩に戻る途上にて生麦村(イギリス人が馬に乗って久光の行列を横切ったことで無礼討ちした事件)が起きる。これが元で薩摩はイギリスと開戦したが、時勢は久光の思惑と関係なしに動き出した。倒幕も版籍奉還も久光は望んでいたわけでなく、大久保・西郷に騙されたと痛憤していた。