最後の将軍《下》 司馬遼太郎

2002年10月20日発行

 

第一次長州征伐は薩軍の働きと慶喜の将才で勝利した。が幕府は将軍家を危うくするは薩摩でも長州でもなく慶喜であると見ていた。家茂が上洛すると松平容堂に慶喜に謀叛心あるかと尋ね、容堂は否定したが、2人のやり取りが慶喜の耳に入り慶喜は自らの至らなさを恥じた。家茂の急死で幕閣はやむなく慶喜を立てようとしたが慶喜は拒絶した。慶喜は田安家の亀之助を立てよ、自分は後見職になるという。日が経過するが、幕府は滅びるとみている慶喜は将軍になって出来ることはないと先に見切っていて将軍になろうとしない。武力衰えればもはや盟主と言えず、その時勢に将軍家を継ぐということは千載の賊になることだと知っていた。慶喜は原市之進に政権を捨ててしまおうと語る。春獄には諸侯が将軍を選ぶべきだという。慶喜は公的な将軍職は継がぬが私的な徳川宗家は継ぐとも言う。慶喜はその言葉どおり、家茂の死後7日目に宗家のみ継いだ。長州への大打込を宣言した。もっとも春嶽はじめ、内乱となる長州征伐に皆反対であったため、慶喜の真意を皆諮りかねた。が突如慶喜は長州大打込をやめると言い出した。小倉城下に奇兵隊が乱入し長州軍に勝てないとの老中小笠原長行から報告があったからである。春獄は慶喜を、百の才智あるもただ一つの胆力もない、胆力なければ智謀も才気も猿芝居になるに過ぎないと言った。結局、慶喜はいやいやながら将軍職を受けた。直後に佐幕派だった孝明帝が病死された。幼帝の下で岩倉具視大久保利通と一体となり倒幕勅命が作り出された。兵庫開港を自ら四賢孝に説き続けて危機を脱した慶喜を、西郷隆盛木戸孝允は誰よりも恐れた。薩長同盟により幕府の余命幾ばくもないとき、山内容堂大政奉還案を持ちかけたのが後藤象二郎だった。慶喜は元来そのことを考えていただけに容堂の炯眼に感謝した。慶喜は幕府役人の前で自ら大政奉還を説き皆を説き伏せた。朝廷はこの案を許容した。薩の流血方式は回避されたが、次は朝廷を動かし大久保利通が立案した辞官納地を慶喜に強要した。朝廷に恭順な慶喜はこれも飲んだ。京を離れて大阪城に戻り、鳥羽伏見の戦いが始まる時には会津藩主と桑名藩主を連れて開陽艦で江戸に戻った。艦の中で恭順の一事を貫くと聞かされた周囲の者は諮られたと思ったが、後の祭りだった。慶喜の恭順は現世の公卿ではなく後世の歴史に向ってのものであった。江戸城を出て寛永寺で謹慎し、海舟をして江戸城を明け渡し、水戸で謹慎の後、静岡に移った。自ら岩絵具をつくり油絵に没頭し写真を研究し刺繍を作っては解いた。会うのは渋沢栄一勝海舟だけだった。屋敷に盗賊が入り以後巣鴨に移り住んだ。62歳になり漸く参内し華族に列せられ公爵を授けられた。慶喜の死は江戸を遠い過去のものにし、以来、慶喜は江戸を懐かしむ人々の感傷の中に生き始めた。