回天の門 藤沢周平

1986年10月10日第1刷 2010年1月15日第31刷

 

荘内藩清川村の斎藤元司は、村の酒造家の跡取り息子だった。後年、清河八郎と名乗る。元司は若い頃から遊郭に通う遊蕩児だったが、そんな自分と訣別するため学問を志す。絵師・藤本津之助から聞いた江戸の話、外国の話は元司に影響を与え、剣術も学ぶようになる。剣術を始めた元司は足軽出の阿部千万多が江戸へ遊学した話を聞いて自分も江戸に出たいと思い、東条塾に入塾し頭角を現わす。ところが弟の熊次郎が死んでしまい、一旦故郷に戻るが、3年の期限を切って再度遊学する。その時、直接江戸には向かわず諸国巡りをした。不良に絡まれ剣術の必要性を痛感し、千葉道場に入門し、激しい稽古と学問を両立した。深夜12時に寝て午前4時に起き8時まで修行しその後学問の時間にあてるという厳しい鍛錬の日々を送る。剣術も学問も伸び、いつしか両方を教える塾を自ら構えることを夢見る。江戸にペリー提督が率いるアメリ東インド艦隊が現れ、幕府は混乱し庶民も恐怖に慄いた。そして清河八郎は念願の清川塾を開く。蓮(もとは娼婦高代)を妻に迎え、弟熊三郎も連れて江戸に出た。山岡鉄太郎、樋渡八兵衛、伊牟田尚平らと親交を持つ。攘夷派を次々と捕縛した大老井伊直弼は水戸浪士に殺害され、八郎は幕府に代わる新たな仕組みを考えねばならぬ時が来ていると訴えて同志と虎尾の会を結成し、いつかは横浜焼き打ちをと口にした清河だったが、幕府の役人に狙われ江戸を脱出。安積五郎、伊牟田尚平と旅に出た八郎は京都で田中河内介と出会い、肥後・豊後・薩摩の周旋状を受けとって九州に赴く。尊王攘夷は論じても倒幕王政は誰も説いていない時に、八郎は己の九州遊説からそれが始まるとの確信を抱いていた。藤田東湖の回天詩史を愛唱した八郎は回天の語に己の思想を託し、回天の時期が来ているのをみな気づかないだけだと呟いていた。京都から八郎は田中の連名で倒幕の檄文を各地に送り、京には尊皇攘夷の志士、浪人が溢れ、その中で薩摩の島津上洛を待った。但し島津上洛の目論見は八郎と斉彬では異なっていた。斉彬は交易を開き富国強兵のためには京都朝廷を威圧し頑固な攘夷論を放棄させようとしていたのだった。ここで薩摩藩士同士が斬り合う伏見寺田屋事件が発生する。久光の行動に見切りをつけた薩摩藩士と、この行動に激怒した久光による薩摩藩士への厳しい処置は、結果として幕府、朝廷に強い衝撃を与えた。倒幕の目的は潰えた八郎だったが、江戸に入った島津の後、八郎も再び江戸に戻り、山岡鉄太郎と再会する。蓮が死んだ報を聞いた後、山岡から、恩赦で囚われた者が出獄すれば、江戸で虎尾の会再挙の時期だと諭され、松平上総介を介して幕府に浪士募集を発令させて浪士組を結成し、浪士組が京に向わされることになった時は尊皇攘夷の弁舌を皆の前で振るい、血判状付きの建白書の概要を読み上げた。池田一人、八郎が事前に相談せず事を一人で進めて弄した策であることに反対したが、全体の賛同は得られた。後は幕府を通さず朝廷に提出するためには学習院を通すしかなかったが、学習院は当初こそ受け取らない態度を示したものの、腹を切ると言い切られる最後は受付けて無事朝廷に渡り、勅諚下賜となる。老中板倉は浪士組を江戸に戻し分裂を図り、勅諚を山岡を通じて奪い返そうとした。江戸に戻る直前、芹沢、近藤らが京に残ると言い出し、板倉の思惑通り浪士隊は分裂した。八郎は江戸に戻り横浜焼討の打合せをしている時に山岡が八郎の意図が倒幕にあることに気付き、山岡とも別れた。焼討3日前となり、横浜焼討はやるべきではない、横浜を焼く火はこの国を焼く業火となる、悩み始めた八郎は、この時、少し前から時勢のことで重要な相談があるとのことで一人で来て欲しいと尊攘派や佐幕開国派の両方につき合いがあり八郎も親しく付き合ってきた上ノ藩の重心である金子与三郎から呼び出しを受けた。焼打ちをやめ虎尾の会の志を残すにはこの手しかないと覚悟を決めた八郎は呼び出しに応じることにして、父に宛てた遺書と浪士組取扱に任命されていた高橋泥舟に辞世の句を書き、金子の待つ上ノ山藩邸に一人で出掛けた。帰りは送りの駕籠なく、麻布一ノ橋を一人で歩いているところを6人の男の刃を受けて死んでいった(了)。