昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷
①「天運移すあたわず」を信じて
②「物外の哲学」のなかに流れるもの
③中学時代・ガマ退治に筑波山へ
④東大を出て、三菱へ入社
⑤結婚してロンドン留学
⑥岩崎弥太郎社長のこと
⑦終戦の混乱のなかで
⑧朝鮮動乱で息を吹き返す
⑨財閥解体に対する“最後の一線”
⑩三井・住友と共同戦線をはり、禁止令消滅
⑪碁と美術工芸品の鑑賞
・昭和25年3月1日茨木県生まれ。土浦中学、仙台の第二高等学校、東京帝国大学英法科に入学し、卒業後は三菱合資会社に入社し銀行部に配属された。四谷支店長、大阪の船場支店長、名古屋支店長の後は三菱電機の監査役を命じられた。終戦と同時に取締役、常務を経て22年に社長に就任、31年取締役会長、37年会長を辞任し相談役として今日に至る。名古屋で私が社長の前で発した怪気炎、すなわち“三菱は国家が養成した人材をよりどりに集めて仕事をやらせているが、人材が多すぎて他社へ行けば重役の勤まる人を部長ぐらいにしている、こんなぜいたくな人の使い方をして事業がうまくいかなかったらおかしいくらいです、もっと人材を登用し適材適所で十分に力量を発揮させることにすればますます三菱は栄える”が、三菱電気行きのきっかけとなった。三菱の大黒柱岩崎弥太郎社長が他界されたのは終戦の年の12月2日。社長は重役社員の政治関与は一切禁じていた。私は追放令の基準の1週間遅れて常務になったお陰で追放を免れ、現社長の関義長常務の2名で仕事に取り掛かった。組合に社長候補者の推薦を求めたところ私が過半数を得て社長に就任することになった。危機も会ったが朝鮮動乱で乗り切ることが出来た。最後の一線で人生は勝負すると言うのが私の考え。どうしても守らなければならない一線、超えてはならない一線、突破せねばならない一線がある。その時断固たる決意で腹を決めて立ち向かうことだ。優柔不断な人間が悲劇の主人公になると相場は決まっている。財閥解体の法令は様々あったが、商号商標の使用禁止は最後のとどめだった。これに抵抗するため三菱は三井、住友と共同戦線をはり、ハッチンソン氏を通じて米国務省に働きかけを行った。最後は吉田首相を通じてマッカーサー元帥に話をしてもらって1年猶予を貰った。再延長の先に司令部の手で廃止することが決まり、講和条約発効日をもって称号商標禁止令は自然消滅した。三井の本城に三菱のエレベーターがあるのはその記念塔である。(昭和53年6月6日死去)