川又克二(日産自動車社長)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①水戸郊外、庄屋の家柄に生まれる

②一高コースを捨てて商大へ方向転換

三菱商事を落ち興銀にはいる

④課長ににらまれ管理課へ移される

⑤大阪の四年間、残業と酒で“午前さま”

⑥三十六の若僧、日曹の常務監査役

⑦リュックかついで広島支店へ赴任

⑧日産にはいり銀行通いの身となる

⑨人員整理で社長倒れ経営陣の先頭に立つ

⑩ベア要求に対抗してロックアウトを宣言

⑪日産と共に十六年、相互信頼の碑贈らる

 

・明治38年3月1日水戸市生まれ。水戸は上市と下市に分かれるが、下町の下市から更に徒歩で15分位いった辺り。9歳で上京し、東京商大に合格。卒業後、興銀に入社。陸軍の主計幹部候補生に合格し麻布三連隊第七中隊に入隊した。興銀で中小企業課、管理課、鑑定課(現在の審査部)を経て、北海道の炭鉱視察の最中に大阪支店長代理の辞令を得、福島支店に4か月いた後、36歳で日本曹達監査役に選任された。召集令状を受け主計将校として軍隊生活を送った。終戦後4年ぶりに興銀に出た。融資事務部次長の辞令を貰った後、広島支店長の辞令を受けた。日産重工業の重役として入るようにとの命が下り、22年7月から日産重工業の常務として入った。日産自動車は戦前の鮎川義介氏の日産コンツェルンの傘下の子会社の一つで昭和8年に創立された。労使交渉、興銀出身という事もあって金策に奔走したが、朝鮮動乱で一息ついた。ロックアウトまでやった日産労働争議で全自労は崩壊し、日産に新組合が出来て強固を誇った全自労分会がくずれると、同業他社の労組も皆単産にもどり、ばらばらになってしまった。環境の好転と労使関係の安定が今日の日産の繁栄を培った。オースチンとの提携により34年ブルーバード、35年セドリックと新車発表に至った。(昭和47年より日産自動車会長)