昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷
①布教のかたわら質屋を始めた先祖
②水戸高時代、食費節約で運動場つくる
③京大時代、お寺を回って禅問答
④安田信託入社、初めて知る金の価値
⑤人を担保に異色の貸しっぷり
⑥堤氏の出合い、ボロ鉄道の窮地救う
⑦昭和12年外遊、ロス市の発展を予言
⑧“かじか哲学”にやられ日曹重役に
⑨マレーで「すず」の買い集めに成功
⑩小磯さんの依頼で「藤田家整理」
⑪藤田興業社長、児島湾干拓に乗り出す
⑫観光への歩み、余の繁栄は緑と不可分
⑬国土総合開発、山紫水明の国づくりを
・高野山天徳院の住職真海(大僧正)が祖先。真言宗は妻帯は許されておらず、祖父が明治維新を機に僧籍を去って妻帯し、誕生した実子が父七兵衛である。明治32年12月24日生まれ。上田中学校後、水戸高に進み、京都大学を卒業後、叔父が決めた安田信託に就職した。京都から本店に回され貸付係長、35歳で貸付課長になった。初めて手掛けた豊島園の思い出は深い。アメリカ視察後、営業部次長になったが、日本曹達に移り、日曹鉱業の常務を兼務させられた。昭和17年に東洋鉱産の南方支社長としてマレーに向かった。戦後、川上さんの勧めで藤田興行の社長となった。日銀の借金一切を完済し、天下の名器(茶器)は藤田家所有にするより財団法人藤田美術館(大阪)に収めるべきものだった。当時、大阪の財閥は住友、藤田の二男爵が両横綱で藤田は日本一の美術品収集に熱中して整理にまで行き詰まった。観光事業を決心し、藤田家の大阪本邸、京都加茂川の別邸、椿山荘、箱根の別荘を引き取り、箱根小涌園の開発、椿山荘の再建等を手掛けた。東急の五島さんが藤田興行の相談役に就任されたのはパージで東急関連会社への出入りを禁止された時期だった。藤田興行は昭和30年観光部門を切り離して藤田観光を設立した。国土総合快活会社の社長をおおせつかり、南千葉の富津岬と三浦半島の走水間に8キロの橋をかけ、千葉側を埋め立てて一大工業地裁とする計画を立てた。(昭和52年藤田観光会長。53年12月8日死去)