昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①東北の町屋で出生
②幸福だった広陵生活
③運命の一女性に会う
④三菱鉱業の現場勤務
⑤揚々といのしし護送の大役
⑥偏屈者の名をもらう
⑦尾去沢鉱山へ転任
⑧戦慄の尾去沢鉱山惨事
⑨洗面器で酒の飲み比べ
⑪失言のおかげで命拾い
⑫組合の生産管理と戦う
⑬“全鉱”相手に2か年半
⑭古巣へ戻る-社長就任
⑮西独覇権の日本炭坑労務者
⑯“晴釣雨棋”を座右銘に
⑰「履歴書」をかえりみる
⑱“紛争解決”の唯一の基礎
・明治23年9月山形県鶴岡市の商店町に生まれた。日露戦争で2人の兄が戦死。一高に入り、東大法学部を卒業後、三菱鉱業に入社。労務と総務を一緒にした事務の主任として明延鉱山に回されると、労使の激しい対立の現場だった。その後、秋田県の尾去沢鉱山に転任。深刻な労働問題を経験し、ダム決壊の大変災が突発した。本社に呼び戻され、労働部、調査部を回った。戦争に突入すると専心アルミニウムの増産に打ち込む。終戦後、日本アルミニウムの社長になると、組合側が生産管理闘争を始めたのでロックアウト宣言をした。パージされて参っていたところに鉱山経営者連盟の専務理事の話を受けた。昭和25年、日本精鉱株式会社の社長になる。その後古巣の三菱鉱業の社長に就任。(昭和34年三菱鉱業相談役に就任。47年12月11日死去)