昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①衆望にない中学へ
②見合もせずに養子に
③大八車を引いて呉服の卸
④服部商店に入社
⑤無経験の身で上海行の社命
⑥服部商店主の急死
⑦豊田佐吉翁の横顔
⑧豊田紡績へ入社
⑨素人だけで機銃作り
⑩31日間のスト。譲らず。
⑪ガタガタ車の叱責に憤慨
⑫未来の設計図
・明治21年11月16日百姓の沢田徳三郎の三男として愛知県生まれた。母方の遠縁の児玉一造さんの家にやっかいになって滋賀県立第一中学に入学した。次男の児玉利三郎さんが後に豊田家の婿養子として豊田姓を名乗り豊田自動織機の社長として活躍された。小学校の代用教員を1年経験した後、商家に丁稚奉公した。利三郎さんのすすめもあって石田家に養子に入った。養父は養子に行く前々年に亡くなっており、呉服の卸問屋の人手が足りなくて養子になった。中学校時代居候をしていた隣町の児玉一造さんが世話してくれたのが服部商店で、この時代に服部兼三郎さんを知った。児玉一造さんが三井物産の名古屋支店長時代、豊田佐吉さんを物心両面にわたって応援した。服部商店で上海と香港で仕事をした後、帰国した。児玉一造さんからは「自分一人でメシを食おうなんてケチくさい考えを起すな。人間である以上、社会、国家に貢献する仕事をせにゃ。志をもっと大きく持て、野心を燃やせ」と説かれた。豊田紡績へ入ったのは38歳の時。戦後、自動織機の社長となり、兼任で自動車工業社長にも就任した。朝鮮動乱で再建が軌道に乗った。日本独自の創意を盛った実用車をつくれば売れるところはいくらでもある。(昭和36年トヨタ自動車工業会長に就任。46年相談役。54年9月18日死去)