明治日本を創った志士 伊東博文 古川薫

2007年3月25日第1刷発行

 

伊藤博文長州藩の小作農十蔵の子として生まれる。幼名は利助。利助6歳の時に父は引き負いの責任を取って僅かの財産を売り払い無一文となって隣の長門国に出る。足軽・永井武兵衛の住み込みとして働き伊藤姓を名乗って独立した武兵衛が十蔵を養子に迎える。十蔵は家族を呼び寄せ、13歳の利助は新年連歌会の小使いとして召し出された。父杉百合之助の家の座敷牢で松陰が始めた松下村塾身分制度の枠を取り払った自由な空気の中で利助も学び始める。立ち合いで晋作にあしらわれた利助だが、晋作と玄瑞が立ちあいを始めると咄嗟に松陰を呼びに行った。機転が利く。松陰は将来周旋家(政治家)になると予言。

松下村塾には飛耳長目録(塾内新聞)があった。「耳をとばし目を長くして出来るだけ多くの情報を入手し、将来への見通し、行動計画を立てなければならない」と松陰は塾生に情報の必要性を説く。その一環で天皇彦根城幽閉計画の真偽を確かめるべく松陰は利助や山県ら6名を京都に差し向ける。安政の大獄最後の犠牲者として松陰は留魂録を残し30歳で処刑されるが松下村塾の若者は松陰の遺志を継いだ。南紀派の直弼の勝利で家茂時代を一旦は迎えるが凶刃に倒れる。イギリス公使館焼き討ち事件後、晋作達は回向院に葬られた松陰の遺骨を長州藩の控屋敷の敷地内に移して改葬した(松陰神社)後、京に出る。松陰が門弟となった佐久間象山に晋作も学び上海に渡航して開国論に傾いていく。井上多聞も象山に影響を受けて開国論に移る。英国留学を思い立った井上多聞、山尾庸三、野村弥吉、伊藤俊輔、遠藤勤助の長州ファイブは藩邸の留守訳村田蔵六と交渉し5千両(今の5億)調達に成功し渡航する。ロンドン大学に留学し英語を猛勉強して驚くばかりに上達する。岩倉使節団がロンドンに向かうのはこの9年後。

生麦事件、薩英戦争と次々に大事件が起き、俊輔と多聞は帰国し、残り3人は残って勉強を続ける。帰国した俊輔と多聞は藩主毛利敬親に攘夷放棄を勧める中、池田屋事件が勃発。長州藩が京都を追放されると長州兵による京都乱入事件「禁門の変」に発展し長州征伐令が下る。長州降伏により休戦となりアーネスト・サトウと高杉(井上・伊藤も随行)が講和交渉に当たる。ここから路線が尊王攘夷から尊皇倒幕へと切り替わる。長州は急進派と保守派で対立し俊輔は晋作とともに保守派と戦うことを決意。遊撃隊の石川安四郎を説得し当初80人しか集まらなかった決死隊が2000名の武士団にぶつかっていく。そこに重傷を負った井上が復活し鴻城軍の指導者として第一線に立ち決起成功、倒幕の藩論を回復する。晋作は結核で29歳の生涯を閉じる。

長崎のグラバーから薩摩の名義で武器購入を進める輔、洋式の軍事訓練を進める村田蔵六大村益次郎)、龍馬による薩長和解も急速に進み同盟が成立する。長州再征の令が発せられ、長州軍は幕軍を撃退し、薩摩軍も起ちあがり、薩長両軍で鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争を経て、長いトンネルを抜けて夜明けを迎える。30歳となり博文と名を改め、この後5年かけて周旋家の活動を行う。欧米視察の間に留守を守った土佐肥前西郷隆盛を祀り上げて内閣を親切し征韓論の方針を固める。薩長閥が帰国し征韓論を叩き潰すと、これが西郷は参議を辞職して鹿児島に帰る(明治6年の政変)。佐賀に帰った江藤新平佐賀の乱西南戦争が起き、将来の逸材が次々と死んでしまう。桂小五郎木戸孝允西南戦争中に病死し、大久保利通が暗殺され、国会開設時期を巡って漸進論の伊藤博文が急伸論の大隈重信一派を追放して政局の中心に座る。プロセイン憲法を範に大日本国憲法の制定準備に入り、45歳で初代内閣総理大臣に就任。陳海楼で博文は国家のため命がけで働けと言う激励をたまわらなかったことを遺憾だとする演説を行い、郷党の心を踏みにじると批判を受ける。井上馨外務大臣として博文に仕え鹿鳴館外交を推し進める。

閔妃暗殺事件(反日親露の朝鮮王妃を駐韓公使三浦梧楼と大院君が組んで殺害)が明治8年に起き、大院君を中心とする親日内閣ができると、朝鮮義兵が起こり親日内閣が倒れる。ロシアは遼東半島を押さえ、南下政策が朝鮮半島に及ぶ中、日英同盟が成立し、開戦論が強まる。参謀総長に山県が、参謀次長に児玉源太郎が就任し、明治37年(1904年)、白人と有色人種の世界史上最初の戦争となる日露戦争が始まる。児玉は戦闘持続不能を枢密院議長伊藤に伝えて講和を上申し、伊藤はルーズベルト大統領を巻き込んで賠償金なしの講和を取り付けるも日比谷焼き討ち事件が起こる。戦争終結直後に日韓協約を結び韓国統監府設置を決めた伊藤だが、韓国併合の2か月前に韓国統監を辞任し、韓国問題から身を引いた。その4か月後、ロシア蔵相との会談のために満州ハルビン駅に到着した伊藤に安重根の拳銃が火を噴き暗殺される。

 

伊藤博文に対する評価は2分されているが、足軽出身で内閣総理大臣にまで登り詰めたことはやはり特筆に値しよう。若い頃から英語を学び、近代日本の骨格を作るために粉骨砕身努力した政治家の一人であることは間違いないところだと思う。