長門美保(長門美保歌劇団会長) 私の履歴書 文化人14

昭和59年4月3日1版1刷

 

①オペラ一筋

②福岡生まれ

③ドイツの生活

④帰国し小学校へ

⑤突然逝った母

⑥ホームステージ

⑦九州の小学校

⑧女学校から芸大へ

ソリストとして

⑩学外コンクールで一位

⑪主役舞い込む

⑫「軍艦長門

⑬専属歌手

⑭女優さんに声学指導

山田耕筰先生

⑯慰問依頼、軍から“赤紙

⑰戦後すぐ歌劇団結成

⑱「ミカド」初演

⑲“飲んべえ”の誤解

⑳念願のパリへ

㉑日本文化紹介手助け

㉒広がる舞台

㉓初演物に挑戦

㉔明治百年記念

㉕文化輸出

㉖最愛の夫の死

㉗オペラハウスの夢

 

長門美保歌劇団を作り、オペラ「蝶々夫人」を600回以上は公演した。「ミカド」も500回を超すと思う。日本の創作オペラも全部で千回は越えている。

・明治44年6月23日福岡県生まれ。父が貿易関係の仕事をしていた関係で3歳の時にドイツに渡った。小学校に上がる年に日本に帰る。小4の時に母が亡くなり呆然自失となったが、悲しみを紛らわすために音楽に没頭した。当時は活動写真が流行っていたが父は絶対連れて行ってくれず厳禁にされた。余計に好きな音楽に集中した。小6の夏休みの時に大牟田の祖母の家に遊びに行くが、関東大震災で東京に戻れなくなり、地元の小学校に通う。近くの劇場に通い、歌舞伎めいたものから田舎芝居まで色々な物を観た。この経験は後に大きく影響した。大牟田の小学校の卒業の免状と、東京の日本女子大学付属豊明小学校の免状と2つ貰う結果となった。付属高等女学校を卒業後、上野の東京音楽学校に入学。声楽科をトップで卒業し研究科に進んだ。時事新報社の音楽コンクールに無断で出場したため、コンクールをやめるよう説得されたが、本選会に出て一位になり、評判になって研究科を出て日比谷公会堂で第1回独唱会を開催すると超満員でびっくりした。コンサートでエネルギッシュな歌い方をしていると、軍艦長門というニックネームを頂戴した。並外れた声量のせいか、ある時、地方のリサイタル会場の天井が落ちてきたり、NHKの音量を示す針が最大値で動かなくなり機械が壊れたりした。キングレコードとはクラシック専属歌手として沢山の歌を吹き込んだ。映画会社の社長から女優さんのレッスンを付けて欲しいと頼まれ、原節子さん、清川虹子さん、細川ちか子さん、山根寿子さん、堤真佐子さん、高峰秀子さんに教えた。戦後すぐに長門美保歌劇団を結成し、10月に戦後初のリサイタルを企画し、夫の雄詞が大きなポスターを作った。21年から蝶々夫人をとりあげ、22年には魔弾の射手を日本初演した。大曲が公演できたのは指揮官フェルマー先生のお陰だった。ミカドは一大センセーションを巻き起こした。アメリカ人にも評判となり日比谷公会堂での延長公演の後に再度延長公演することになった。歌う前に砂糖水を飲んでステージに出るのがルーティーンだったが、ウイスキーの小瓶に砂糖水を入れて飲んでいたため、飲兵衛おミホと勘違いされたこともあった。24年には「フィデリオ」と「泥棒とオールドミス」を講演。20年代後半にパリ・オペラ座に通い練習場にも自由に立ち入りをさせてもらった。30年前後からパリと日本を行き来する生活となる。39年にコンセール・アミを結成し、声楽、各器楽、邦楽、日舞、華道、茶道、バレエ、書道など、幅広い分野の人たちと総合芸術の新しいことを始め、毎月1回演奏会を開き、その回数も200回近くになった。私はステージドレスも、普段の服も個性ある物を身につける。特にステージものは自分でデザインを考え必ずどこかにポイントを置くことにしている。50年も日本のオペラハウス建設を強く要望しているが、さっぱりできない。予算がついたとはいえ、間に合わせものでは困る。文化国家と呼ばれるにふさわしい、恥ずかしくないものになることを切望してやまない。元気で仕事を続けていられるのは呼吸を大切にするからだ。十数えて吸ったら二十数えて吐く。背筋をそらせる運動をする。小食だがよくかみ時間をかけてゆっくり頂いている。