おわらない音楽 私の履歴書 小澤征爾

2014年7月25日第1刷

 

世界を駆け抜けた疾風怒濤の79年、未完の指揮者人生を爽やかに振り返る。

 

昭和10年9月1日、旧満州生まれ。歯医者だった父が満州事件をきっかけに政治活動にのめり込み、石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、1字ずつもらって「征爾」と名付けられた。小学校4年のとき、初めてピアノに触れた。担任の先生はピアノが出来る人だった。中2からピアノを練習するようになった。バッハの練習をやらされた。ラグビーに夢中になり、指を折る等の大けがをしてピアノが出来なくなると、指揮者という職業があることを教わった。母の親戚に斉藤秀雄がいた。その弟子に基本を教わり、月2回程先生に教わった。桐朋学園女子高校の音楽科に入学したが、斉藤先生は無茶苦茶厳しかった。高校卒業時に落第し、留学生試験にも落ちた。23歳で海外に渡った。ブザンソン国際指揮者コンクールに参加すると、思いがけず1等だった。直前、強制送還されそうになったので、正直、ホッとした。審査員だったミュンシュの指揮する音楽会に出掛けてミュンシュと出会った。帰国を考えた時に井上靖さんに出会い、音楽は小説と違って翻訳がいらないから、どんなことがあっても、ここにいなさいと諭された。この言葉はその後も心の支えとなった。カラヤン先生のレッスンに通っている最中、ニューヨーク・フィルから副指揮者として採用する知らせを受け取り、カラヤン先生に相談すると、経験のためにニューヨークに生き、終わったらまた来なさいと温かく送り出してくれた。その後NHK交響楽団を指揮することになったが、大きなトラブルを起こす結果となり、ニューヨークに戻った。ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任し、翌々年には経験の幅を広げるためにトロント交響楽団音楽監督に就任した。サンフランシスコ響とボストン響の2つを就任したが無理が祟りボストン響に専念し29年在籍した。ボストンを辞め、ウィーン国立歌劇場音楽監督に2002年就任した。カラヤン先生の言うとおり指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪だった。