私の履歴書 高崎達之助(経済企画庁長官) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和59年2月23日1版15刷

 

①淀の川魚で育つ

②「水産」をやる決心

③失敗したいわしカン詰

④メキシコへ

⑤フーヴァー氏に会う

⑥革命で仕事はオジャン

東洋製罐会社に打ち込む

⑧「満州重工業」時代

ソ連軍司令官と会談

⑩米国へ土木技術の勉強に

⑪生涯の記念事業-佐久間ダム

 

明治18年高槻市生まれ。大阪府立第四中学の英語の浜田真名次先生から水産業こそ日本に残された唯一の輸出業でその水産の唯一の専門学校が農商務省直轄の水産講習所であると教わり、水産を勉強することに決めた。講習所では製造科に入る。講習所卒業後、東洋水産会社へ技師として入った後、カン詰事業を学ぶために3年間の契約でメキシコに渡った。スパイと間違えられて報道されたりしたが、容疑を晴らし米国に行く。製カン業とカン詰業を分けねばならないことを学んだ。帰国後、東洋製罐会社を設立し、20年くらいは元旦以外は休んだことがないほど製罐事業に打ち込んだ。事業は第1に人類の将来を幸福にするものでなければならぬ。第2に営利を目的とすべきでない。第3に現状維持は退歩である。第4に事業の主体は従業員でなければならぬ。フーヴァー氏から習ったものだが理想に燃えていた。フーヴァー氏にならってカンの単一化を進めた。満州に渡った後は満州重工業副総裁として仕事をした。軍が圧力をかけてきたため仕事は行き詰まっていった。敗戦後日本に引き上げると、電源開発会社を引き受け、ダム建設を学ぶために再び米国に渡る。帰国後佐久間ダムを手掛け、3年で完成させ、経済企画庁長官として祝辞を述べた。

(昭和30年に第三次鳩山内閣の建設相、33年には第二次岸内閣の通産相に就任。日ソ漁業交渉に活躍し、LT貿易を開いた。昭和39年2月24日死去)