劉邦《下》 宮城谷昌光

2015年5月20日発行

 

帯封「楚漢戦争、ここに終結! 宮城谷昌光作家生活25周年記念作品 己を超えし者が生き残る-天下をめぐる項羽との決戦は最終局面・垓下の戦いへ。二人の男がぶつかる時、中華全土に閃光が走る!」「項羽の命運やいかに。『天がわれを滅ぼそうとしているのであって、戦いに罪があったわけではない』 自らの秦ねんを曲げた劉邦の真意とは? 秦王の降伏を受け、劉邦は秦の都・咸陽に入る。しかし、項羽によって劉邦は、巴、蜀、漢中の王として左遷されることに。項羽と天下を争うことを決意した劉邦は、関中へ兵を挙げる!」

 

項羽に率いられた楚の主力軍は秦の主力軍に戦いを挑んだ。秦軍の兵力はおよそ40万。楚軍はとても10万に満たない。ところが項羽は秦の大軍を撃破した。章邯と項羽の戦いは対峙したまま長期戦となった。張良の行方を心配していた劉邦張良と再会を果たした。秦の首都である咸陽へは劉邦は南路から、項羽は北路から攻め入った。劉邦は西征する中で兵力を増やし7万数千となった。項羽は章邯を破り50万の兵を保有するまでになった。劉邦は秦の民を拉致することを禁じ兵を厳しく戒めた。評判の良さが秦兵の戦意を挫いていく。秦王は劉邦の勧告を受け入れて降伏した。秦の宮殿に入った劉邦は女と酒にすぐに溺れた。張良劉邦を諫めた。正気に戻った劉邦は「法は三章のみ」と宣言した。“人を殺す者は死し、人を傷つけ、および盗するは、罪に抵る”。他方、項羽は秦の兵20万余を穴に落とし埋め殺した。その項羽の下に劉邦が関中王になろうとし函谷関を閉じ諸侯を関中に入れないのは欲望の大きさの証であるとの讒言を認めた書翰が届いた。項羽は函谷関を破り鴻門に向かった。項羽劉邦を殺す計画を立てたことを知った張良は函谷関を閉めたのは間違いだと気付き、そのことを知らせてくれた項羽の叔父項伯と一緒に劉邦に事態の急を告げ、直ちに項羽に謝罪するため鴻門に向かって項羽に拝謁した。項羽劉邦との仲を裂こうとした者の名前を明らかにした。しかし范僧はここで劉邦を殺すべきであると忠告し、酒宴で剣舞を披露させ、そこで暗殺を謀ったが、張良から相談を受けた項伯が劉邦の前に立って舞を舞うことで劉邦の斬殺を防いだ。厠に向かった劉邦はそのまま席に戻らずその場を立ち去り、難を逃れた。これを悔しがったのは范僧だった。項羽に誣告したのが曹無傷だと分かった劉邦は以前夏候嬰とのいさかいを密告したのも曹無傷だと分かったことで、どうして曹無傷が劉邦に恨みを持ったのか、漸く思い当たった。劉邦が外妾とした曹氏を曹無傷が愛していたからだった。漸くそのことが分かったと劉邦が告げると、曹無傷の目から涙が溢れ出た。しかし、辛かったが劉邦は曹無傷を斬らざるを得なかった。劉邦は、項羽から、巴、蜀、漢中の王に任じられた。南鄭に向かう途中で再び張良と別れた。宰相の蕭何が劉邦の前から消えたが、それは蕭何が韓信を連れ戻すためだった。蕭何は漢中王のままでよいなら格別、天下を争う考えならば国士無双韓信を措いて事を計る者はいないと言って連れ戻した。韓王が項羽に誅された後、張良は再び劉邦の下に戻った。劉邦は56万の兵力を率いて洛陽を出た。劉邦はまず西方の覇王になることを目指し、章邯の弟の章平が捕斬されると、遂に東方遠征を開始し天下取りを始めた。項羽の主力軍とやがてぶつかる。項羽が義帝を誅したことを聞いた劉邦は、項羽は大逆無道であるとした。しかし56万の連合軍は3万の楚軍に大敗した。背水の陣の韓信は20万の趙軍を破った。張良は酈食其が劉邦に授けた策を借箸籌策(しゃくちょちゅうさく)し、劉邦は以降余り酈食其を信用しなくなった。劉邦は陳平の策を入れて項羽が猜疑心の強いのを利用して臣下との離間工作を行った。范僧が項羽の態度の変化の理由を調べると、項羽は范僧を突き離そうとしていたのが分かった。范僧が項羽に我は外国を賜いて卒伍に帰ると述べると、項羽は何の労いもなかった。城に長期間籠って餓死寸前の劉邦を救うために、紀信は劉邦の身代わりとなって項羽の前に現れ、その隙を突いて劉邦は無事脱出した。項羽が紀信を焼き殺したと聞いた劉邦項羽を譏訕した。劉邦は南下して武漢を出て燕と斉を連合させる策を進言した袁生の言うとおりに行動し、項羽が南下したが、すぐに項羽の楚軍は東へ去った。項羽が本拠としていた泗水郡を彭越が目指したために項羽が慌てて東方に移動した。項羽は彭越を破ると再び劉邦を取り囲もうとした。劉邦は夏候嬰の言うままに再び逃げた。広武山で項羽は東広武城を建て、劉邦西広武城を建て、両城の距離は百余歩(140メートル)程だった。韓信は斉王となり、項羽に付くことはないと断言する張良の言うことを信用した劉邦だったが、項羽と膠着状態が続き、劉邦は黥布を南淮王に任じた。劉邦張良の進言を入れて項羽に講和を持ち掛けた。天下を二分して東を楚が、西を漢が保つこととなった。張良と陳平の進言に従い劉邦は、盟約を信じて帰途についた項羽を襲った。項羽は固陵での戦いで劉邦と大勝負を挑んだ。次第に項羽軍は劉邦軍に押されて南下を余儀なくされ、南下が難しくなると東へ向かった。垓下で項羽劉邦の漢軍、韓信の斉軍、彭越の魏軍に周殷と黥布の軍が加わって四面を囲まれた。項羽は愛妾虞美人と共に四方から聞こえてくる楚の歌を聞いた。人の声でなく天地の声として。項羽は静かに酒を吞み、詩を歌った。「力は山を抜き 気は世を蓋う 時に利あらず 騅逝かず 騅の逝かざる 奈何すべき 虞や虞や なんじを奈何せん」。項羽は自害した。楚漢戦争は終わりをつげ、劉邦は周りから求められて漢王朝の初代皇帝の座に就いた。