楽毅 第4巻 宮城谷昌光

1999年10月30日発行

 

戦国時代の前期は魏の時代である。魏を最強国にしたのは李悝(りかい)である。李悝の思想は商鞅に受け継がれ、商鞅が秦へ移ったことから秦で根付いた。秦は李悝の法を輸入したことで強国になった。楽毅は魏の首都大梁に赴き、法家の李老子の門をくぐり、弟子の条有から教えられた李悝の法を教えられた。李悝の法に触れた楽毅は王者の法であるとの感想をもった。楽毅は、条有以外にも、季進、単余、里袁、里袁の甥・里昉らを召し抱えた。斉で田甲事件が起き、孟嘗君は斉から魏に移り、楽毅を訪ねた。孟嘗君楽毅を魏の昭王に謁見させ、魏の使者として燕へ行った。燕の昭王は自ら楽毅を出迎えた。楽毅を燕は貰い受けたかった。楽毅は妻子を魏に人質として残し、燕に仕えることにした。これにより燕と魏との厚誼の道は開かれた。燕にて楽毅が重きをなすことは孟嘗君が考えていたことでもあった。昭王の大望は斉に復讐することにあった。楽毅は昭王に対し趙を敵に回さず、趙に主導権を与えるべきであると説き、そのために趙に太子を人質とすることを進言した。昭王は楽毅を信頼していたが、子の太子は楽毅の提案を誤解して楽毅を怨み国外追放を目論んだ。昭王の耳に太子の言動が耳に入り太子に鞭を振い、楽毅の家族を魏から燕に転居させた。斉の下にいる燕は、斉が宋を攻める時は従うしかなかった。楽毅は斉の再度の宋攻めの際は魏と楚を加えさせて燕が加わる必要がない状況にし、宋が滅亡した後、斉、魏、楚が争う場をつくれば、燕は兵を使わず斉を窮地に追い込むことを考えた。燕で楽毅は軍政改革を始めた頃、郊昔が楽毅を訪ねた。魏冄の構想で、秦の昭襄王、斉の湣王は互いに西帝、東帝と称し、二大王朝が開いたが、2か月で終焉を迎えた。斉の湣王が秦を攻めると決め、燕に兵を出せと言い、楽毅が出陣して連合軍の兵を率いた。途中で孟嘗君と打合せし、孟嘗君からは秦に恨まれるほどの大勝はするなと忠告された。斉から宋への出兵要請が来ると、楽毅は機は熟したと感じ、突如斉軍の一部を攻撃し、斉軍を潰走させた。この時から斉の栄光は崩落し始めた。燕は斉と断交し、小国が超大国に強い姿勢を見せたことは驚異を天下に与えた。楽毅は昭王から相国の位を授けられた。楽毅の霊丘攻めは成功を収め、燕は斉に二度も勝った。秦はここまでくれば斉を攻め潰した方が得策であると考え、韓、魏、趙、燕を加えた五国の軍を総帥する将に楽毅がつき、斉は大敗した。楽毅は五千の騎兵で斉の首都臨淄を襲った。奇襲は成功し、臨淄の宮中に攻め入ると、湣王は遁走して衛に亡命しその後楚軍に合流しようと向かった莒(きょ)が死所となった。斉の守る城はわずかに莒と即墨の二城のみとなった。昭王は亡くなる直前に楽毅に斉王となすとしたが楽毅は臣下にすぎず斉を保ちうるのは燕王しかいないと言って断り、妻子を再び還した。昭王が崩御すると楽毅が燕都に戻ろうとしたが嗣王が一歩も出るなと厳命を下した。楽毅と嗣王との嫌隙を突いて即墨の田氏は楽毅を讒言して回った。楽毅は燕に戻るよう命じられ、趙の恵文王を訪れて望諸君と号した。田氏は楽毅が落とした七十余城をあまねく奪い返し斉の宰相となった。嗣王(恵王)は楽毅の返書を読み、楽毅が趙軍を率いて燕を攻めることがないことを知って安心し、楽毅の子を昌国君とした。やがて楽毅は趙と燕を往来し、趙で死去した。