公乱記 中巻 宮城谷昌光

2004年3月20日発行

 

咸陽まであと数日というところまで周文の軍が迫った。二世皇帝は叛乱のことを知らなかった。無名の章邯は驪山で強制労働に従っている70万余を兵に作り変えてしまおうと言った。秦兵は周文の軍を追い払った。田横は博陽に入り田吸家と陶阪家を訪れた。田吸と季桐と再会した。田横は死んだと聞かされていたので皆驚いた。田横は狄に帰り、2人の兄と共に起ち、斉国の復興計画を打ち明けた。田儋は県令に対する復讐を果たし、群衆は田氏を斉王万歳と声を上げた。周市の軍が狄城に奇襲を掛けようとした、まさにその時、田横の五千の軍が周市を襲った。城から田栄の軍が出て周市の軍を破った。田横は兄の田栄と再会を果たした。蘭が宮殿に入って2年が経過した。楚の項梁、項羽劉邦、趙の張耳と陳余、魏の周市らが各地で活躍していた。田横は項梁を訪ねた帰り道、不俱戴天の仇の汪代が田横を取り囲んだ。そこに彭越が現れて田横を救った。季桐が臨済の城に連れて行かれたと聞いた田横は季桐の救出に向かった。秦の軍が魏を攻めて来た。季桐を魏から取り戻した田横は斉軍が到着するまで臨済の城を守り抜く覚悟を決めた。秦の軍勢は三十万。魏軍と楚軍は潰滅し、斉王となった田儋は敗死した。田横は自分が臨淄にいたことで、田儋が章邯の罠に近づいてしまったことを悔いた。魏王は自らの首を章邯に差し出すことで臨済の民が殺されない保証を得た。博陽まで田横と季桐は戻った。項梁は武信君と号して楚王を立てた。博陽を臨時の王朝として五千の兵が集まったが、とても十万の秦軍に勝てない。斉に二つの王朝が出来たことになり、利害だけでいえば、臨淄の王朝が正立と認めるべきであった。しかし、田栄と田横の義気や臨済で火中の灰と化した魏横は潔潔の人であり、これらを救わずに何をもって天下を経めようとするのかと高陵君に言われ、楚の項梁は秦の主力軍と決戦することを決心した。項梁は項羽と劉邦に命令を与え、自身も田栄のいる東阿に向かった。項梁と章邯はともに兵法に通暁している。挟み撃ちにするつもりの章邯だったが、項梁の策に嵌り、挟み撃ちにされた。斉は田仮・田角・田間と田市・田栄・田光が対立した。田仮らは亡命したため、田栄は項梁に田仮を殺し、趙に田角・田間を殺してもらいたいというが、楚王はこれを断り、斉は孤立し始めた。章邯に勝利し油断した項梁に驕りが生じた。章邯はこの機を見逃さず項梁を斃した。秦では趙高が李斯を殺した。項羽は上将軍として秦兵を撃破し、20万余の秦兵が項羽の指揮下に入った。趙高は鹿を皇帝に献じて馬でございますと言い、左右の臣も馬でございますと言ううちに、皇帝は不安になり宮殿を出て行った。