楽毅 第1巻 宮城谷昌光

1997年9月25日発行

 

大国晋が趙・魏・韓に分裂する頃、中山は晋から独立することを画策・実行して成功した。中山の東は燕に接し、南北と西は趙に接している。中山国の宰相の嫡子楽毅が少年の頃、中山の君主は立場を弁えず王を名乗ったため、大国斉は中山との国交を断った。楽毅は斉での学問を希望して、成人となった後、3年の期限付きで留学が認められ、斉の首都・臨淄(りんし)の孫臏の弟子の一人に入門した。斉の宰相は孟嘗君。留学が終わる時期に丹冬が迎えに来た。丹冬によると、趙王が中山を望見した、攻め取るつもりらしい。楽毅は斉との断交状態を改善して趙王の野望を止めたいと考え、薛公すなわち孟嘗君を訪ねた。楽毅孟嘗君の大きさに感嘆し、中山は孟嘗君に縋るべきだと思った。孟嘗君の中山への贈り物は同盟相手を守り抜くという意味を持っていた。楽毅と丹冬は趙の首都邯鄲の楽池邸を訪ねた際、趙王の中山攻めを聞かされた。楽毅は中山の首都霊寿に戻り、父には孟嘗君に縋るべきだといったが、父は魏に頼った方がよいと考え、中山王に魏への使者を立てるよう進言したが、王がこれを容れることはなかった。危機意識の薄い王に対し、太子が自ら魏への使者として赴くことを告げ、楽毅は同行した。魏の君主は襄王だが、中山と趙の紛争は襄王にとり手に余った。治められるのは秦と斉しかおらず、秦は君主が亡くなり乱れていた。戻った太子に、中山王は労を労おうとせず、非情な言葉を投げ落とした。趙の武霊王が果断を行った。群臣に胡服を着せ、騎射させた。これは中国の文化ではなく、群臣は反対したが、押し切った。中山でも騎馬軍を創設することになる。楽毅は商人の周袖に大量の弩を注文した。狐午の娘狐祥に会った。太子の暗殺者を救ったのは龍元だった。太子が帰国する際に助けたのも龍元だった。孟嘗君は中山滅亡の前に太子を斉に亡命させる案を提案してきた。これを太子に進言すると、太子は自分ではなく我が子を斉に亡命させてほしいという。趙が動いた。武霊王は一回の遠征で、中山だけでなく、林胡、楼煩、東胡を降伏させようとしたが、予想外の中山の抵抗に遭い撤退した。秦の内乱が治まり、昭襄が王に就いた。武霊王は中山一国の攻略に的を絞った。太子は北辺に配され、楽毅の父は東垣を、楽毅は井陘の塞を守った。バラバラにするよう中山王に囁いた者がいたかもしれなかった。中でも太子が北辺に回されたのは問題だった。もし霊寿が陥落し中山王が死ねば、太子が間髪入れず即位せねばならぬが、北辺にいれば、それが叶わないからである。楽毅の父子は別れた。永遠の別れとなった。中山王は南の井陘の塞鄗が趙に落とされたため太子を南に向かわせた。しかしこれは趙の武霊王が中山の騎馬軍を誘い全滅させる罠にみすみす嵌る愚策だった。楽毅は周袖に太子を斉へ亡命させるよう指示した。楽毅と敵将趙与との知恵比べの攻防が続き、一進一退の戦いが展開される。楽毅の父が戦死した。太子を救うために代わりに討ち死にした。楽毅は井陘の塞を守りきった。四邑を献ずることで中山は趙と講和した。趙軍は撤退した。