楽毅 第2巻 宮城谷昌光

1997年9月25日発行 1997年10月20日2刷

 

国難が中山を襲った。その中山は司馬熹が率い、楽毅は父の戦死で喪に服した。趙との講和の使者に司馬熹は楽毅を推した。楽毅は司馬熹が人物であると感じて使者になることに応じた。楽毅随行者に井陘の塞で見つけた郊昔を加えた。楽毅は郊昔に今回は失敗すると告げた。この頃、武霊王は太子の廃替を考え、楽毅を殺すつもりでいた。趙与は呉起の逸話を思い出した。楽毅を迎えたのは井陘の塞で戦った好敵手の趙与だった。趙与は楽毅に好意を持った。しかし武霊王は中山が差し出すのは四邑でなく十四邑であると突然難癖をつけた。咄嗟に楽毅は機知を働かせて急場を逃れ、趙与を盾にして逃げた。ところが国境を定める塞が新たに築かれていた。しかしここも郊昔が智恵を働かせて突破した。復命した楽毅に中山王は自殺を命じた。趙の武霊王の内命を受け、李兌(りたい)は魏に住む戦国期最高の人相見である唐挙に会いに行った。武霊王は太子の廃替を考え、唐挙に未来を占ってもらった。唐挙は公子何が国王になれば在位30年を下回らないと述べ、直後に李兌に公子何は父を殺す、9年後にお目にかかろうと言った。趙の第4次中山攻伐が始まった。中山側は防衛に終始し、東部はあらかた趙の支配下になった。喪の明けた楽毅に中山王は昔陽を攻め取れと命じ、果たすまでは帰還するなといった。中山王は趙兵に楽毅を殺させるつもりだった。しかし楽毅に昔陽を攻めさせようとしたのは中山王ではなく司馬熹だった。司馬熹には密かな計画があった。昔陽は重要で、霊寿が陥落しても、昔陽が残れば中山は滅びないとの策を司馬熹は練った。昔陽攻めに太子は我が子尚を楽毅に託して従軍させた。昔陽は公子尚が王で楽毅が宰相という小さな王国になった。楽毅は守城にも優れ、行政にも凡庸でない能幹をあらわした。司馬熹の昔陽攻めの策は孟嘗君の知恵だった。昔陽は斉に近く孟嘗君と連絡しやすくなった。楽毅は太子の子尚を斉へ亡命させた。趙軍が起ち20万の兵が中山を目指した。中山は滅亡の淵にいた。急使が楽毅に中山王と司馬熹が死に、太子が王となったと告げた。斉の昌城と昔陽を交換することが決まり、楽毅は王を扶柳に移し、自ら趙軍と戦う決意をした。楽毅に従う兵は千五百騎。霊寿は陥落されたが、中山王の死が確認されない。中山の抵抗は西と東で行われ、東の中心に扶柳の城があり、そこに王の尚がいた。楽毅は燕に行き、燕の顧問郭隗に中山の窮状を訴えた。即位した燕の昭王が考えた、父と国の仇の斉を討つために斉に勝つにはどうすればよいか(真の賢士を得て国事をともにし、先王の恥を雪ぐことが出来る者をみつけてくれまいか)と昭王が郭隗に問うた時、郭隗は「王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ」と答えた。不朽の名言になった。隗よりも賢い者が千里を遠しとせずに燕にやってくるだろうと。