奇貨居くべし3 黄河篇 宮城谷昌光

2002年3月25日初版発行

 

裏表紙「秦の始皇帝の父ともいわれる政商・呂不韋の波瀾の生涯を描く。孟嘗君亡きあと、不韋は、謀略に満ちた慈光苑のひとびとを助けながら、買人として立つ準備をすすめる。道学や儒学といった学問だけではなく、農業をも通して、新たな一歩を踏み出すための力を着実に蓄えてゆくみずみずしい青年の姿を描く。」

 

孟嘗君の死は、長兄と次兄との争いをもたらし、慈光苑も巻き込まれた。長兄が魏に走り、次兄が斉に走れば、薛が戦場となる恐れがあった。呂不韋はこの世でもっとも力のない者を助けつづけてきた伯紲を殺そうとする斉王を憎み、伯紲や黄外と行動を共にする決意をする。食客の段季(だんき)は孟嘗君の死とともに薛を去った。呂不韋は同じく食客であった申足、申欠(しんけつ)親子に対し、慈光苑の民を救い、伯紲と黄外を救うには、秦の魏冄をすがるしかなく、それを側近の陀方に伝えてほしいと頼んだ。慈光苑の中に維という少女がいた。陀方の手のものとして、張苙(りゅう)という男が従者の向夷を従えて慈光苑にやってきた。呂不韋は魏と斉が結託して慈光苑を亡ぼそうとしていると見破るが、呂不韋の言は入れられず、呂不韋は幼い子ら100人程度を連れて雉の下にいる畛(しん)らの助けによって慈光苑を脱出した。慈光苑を離れるのを潔しとせず伯紲は慈光苑と共に滅んだ。呂不韋は黄外とともに陶へ入った。黄外らは農業を良くするので秦では厚遇された。農本主義をかかげる秦の習性であった。陀方は陶の司寇(警察長官)の職に就いていた。呂不韋は黄外を助ける人物として無名に等しい農民の田焦(でんしょう)を招聘したいと述べた。呂不韋は孫氏の“学は没するに至りてしかるのちに止むべきなり”との教えを体現しようとしていた。この旅に向夷(きょうい)が同行した。楚は敗北を続け、秦は中国統一に向けて急進し始めていた。盗賊に家族を襲われて1人生き延びた童子の旬のために呂不韋は盗賊を退治しに行った。旬の姉は楚の王女だという祖父は呂不韋の腕の中で息を引き取った。呂不韋はこのことを胸の中にしまった。童子の姉の名は袿といった。呂不韋は荀と袿を連れて田焦の捜索を続けた。苦労に苦労を重ねてようやく田焦の居場所を突き止めた。秦兵に捕らえられ処刑の寸前であった。唐氏の下で一度だけ会った呂不韋が千里の道を走って来て我が命が救ってくれた呂不韋に田焦は聖人の光を見出した。呂不韋は田焦と出会い、天啓を得、買人として立つことを決心した。轍鮒の急にある者を見捨ててゆけないのが呂不韋だった。儒家道家でもなく、苦しむ者が勝つというのが呂不韋の感覚であった。鮮乙と再会した呂不韋は3年後に買を行うと言い、呂不韋の独立を心待ちにしていた鮮乙は大層喜ぶ。開業資金は呂不韋は魏冄に出させてみせると言い、拠点を衛の首都である濮陽に定めた。呂不韋は成功には失敗が附帯している、成功し続けることが真の成功である、だからこそ大買を目指さねばならぬと鮮乙に語った。空想も3年程腹中に居いておけば奇貨に化する。呂不韋は陀方(たほう)の屋敷に移り、魏冄より灌漑の許可を得て農業用だけでなく軍事用にも利用できるような渠水工事を行うことになった。渠水工事の専門家として鄭は韓国一の評判だったが、鄭は韓から離れずことができず、代わりに息子の国を遣わした。魏冄は呂不韋を秦の昭襄(しょうじょう)王に仕えぬかと誘われたが、これを断り、買人として2年後に立てば候を巨利をもたらすと述べて下がり、魏冄の心の端を掴んだ。魏冄が、呂不韋が陀方の妻に仕えさせた西袿に目をとめた。呂不韋が予想したとおりとなり、魏冄が陶を去ると西袿も姿を消した。