2002年3月25日初版発行
裏表紙「秦の始皇帝の父ともいわれる呂不韋。一商人から宰相にまでのぼりつめたその波瀾の生涯を描く。濮陽で、いよいよ賈人として立つ呂不韋。趙でとらわれの身となっていた公子・異人をたすけ、大国・秦の政治の中枢に食い込むための大きな賭けがいま、始まる。」
呂不韋は、栗から、小環が疫病で死んだと知らされ、また宰相の次位にある上卿となった藺相如を蔑んだ将軍康頗が、私讎を後にして国家の急を先にする藺相如の寛大さを知り、肉袒負荊(にくたんふけい)を実行してギクシャクしていた両者の関係が刎頸の交わりをなすに至った話を聞き、2人の傑人を産んだ趙の恵文王の偉さを感じた。藺相如は栗に呂不韋の娶家を訪ねた。理由は僖福が呂不韋の子を産み藺相如の夫人に仕えさせていたからであった。陀方から西袿が太子の愛妾になったと聞いた呂不韋が旅に出ると、秦は韓を大破し、魏を壊乱させた。指揮は白起でなく魏冄だった。魏冄は軍事でも逸才だった。宰相から相国に登った魏冄に呂不韋は買による利をあげることが国を富ませることに繋がると説き、黄金の在処を伝え、商売を好まぬ魏冄だったが、呂不韋の話に乗って巨額の運転資金を与えた。孟嘗君の食客であった段季と再会した。僖福とも再会し、呂不韋の子で碧という長男がいることを聞いたが、僖福はこのまま藺相如に仕え続けると言った。呂不韋は申欠が人の三倍の速さで往来できる能力と技術を4,5人に教えてもらい、天下に情報網を敷きたいと頼む。藺がいる限り趙は滅びないように、黄歇がいる楚も滅びることはないと感じた。呂不韋32歳の時、秦の太子が亡くなったと聞き、魏冄が宰相を辞めさせられ、生母の宣太后をも追い出されたと聞いた。正体の見えない張祿(范雎)こそが昭襄王にそれらを決断させた。呂不韋にとって憂慮すべき事態であったが、代わって寿春の春平という新たな取引先を得た。趙では恵文王が亡くなり孝成王が即位し平原君が宰相になった。藺は宰相から降ろされた。魏冄の失脚に伴い穣の倉庫は官の倉庫となり、荷が全て没収され呂不韋は大損害を被った。師の荀子と再会した呂不韋は、古びたものを棄てよ、濮陽を出よと助言された。秦の太子が安国君と決まった。奸臣が多く秦は滅びる運命にあった。呂不韋は邯鄲へ荷を届けるため濮陽を発った。邯鄲で呂不韋は趙から人質として差し出された秦の公子の安国君の子である異人から黄金の気が立ったのを見た。この時、「奇貨居くべし」と思った。呂不韋は一世一代の投機をしようとした。周囲から大反対された。暗黒君には20人以上も子がいたのになぜ異人なのか皆は納得しない。その中で呂不韋は黄金の気を見て買市の道に入り今再び黄金の気を見た、これが成功しようと失敗しようと買の道に戻らない、鮮乙に全てを承継させるというと、申欠だけは面白いと言って賛成した。呂不韋は本拠を邯鄲に移した。太子・安国君は正室の華陽夫人に子がいないため嫡子を決定していなかった。呂不韋は異人に会った。異人は後に「子楚」と名を改めた。申欠は子楚を愚人と見たが、呂不韋は悪人ではないと見た。そして平民の呂不韋が政治を行えば人民に主権が移る世が来るかもしれぬと思った。呂不韋は邯鄲都内に宮を与えさせ、呂不韋の従者の申六を陪臣に加えた。子楚の名を高め、本国に聞こえるようにするために呂不韋は秦都へ向かった。呂不韋は、孤児や寡婦を産む世を惋み、平和をもたらすためには買人ではなく政治しかないと私心なく考えていた。嫡子決定は華陽夫人にかかっていると考えて華陽夫人との謁見を勝負とした。遂に華陽夫人と謁見を果たすと、何と南芷であった。呂不韋は祥風が起つのを感じた。