奇貨居くべし5 天命篇 宮城谷昌光

2002年4月25日初版発行

 

裏表紙「秦の始皇帝の父ともいわれる呂不韋。一商人から宰相にまでのぼりつめたその波瀾の生涯を描く。商賈の道を捨て、荘襄王とともに、理想の政体の実現に向けて、秦の政治改革に奔走する呂不韋だが…。宮城谷文学の精髄・全5巻完結!」

 

華陽夫人は、子産のいた鄭、晏子のいた斉を想い、子楚を嗣子とするかどうか太子の決断を仰ぐと、太子は嫡子とすることを決断した。鮮乙の妹の鮮芳が小環の遺児・小梠(しょうりょ)を呂不韋に引き合わせると、呂不韋は小梠に舞を学ばせた。小梠の舞を子楚が見ると正室に迎えると言い出した。藺相如が亡くなったとの知らせがあった。埋葬のために趙を訪れた呂不韋は楚へ向かい黄歇と再会した。邯鄲で小梠が産んだ子は正と名付けられた。後に政とも書かれるようになった。後の始皇帝である。呂不韋の従者畛が慈光苑で主を殺しかけた殺人剣を持つ高睟の姿を見かけた。ある時、呂不韋が襲われ危機一髪のところでかつて魏冄より贈られた隷人の一人が呂不韋を助けた。呂不韋を殺害しその後に子楚を殺そうとしたのは子傒の近くにいる士倉で高睟を遣わしたのだと見透かした呂不韋は邯鄲に戻った。子楚は涙を流して喜び席をおりてにじり寄った。高睟が再び邯鄲に攻め寄せて呂不韋と子楚に襲い掛かってきたため、呂不韋は子楚を邯鄲から脱出させて咸陽に到着させた。もっともこの時、政と小梠は邯鄲に残っていたため趙人に殺されかけた。後にこれを恨みに思った秦王は自らを迫害した者を探し出して穴埋めにする復讎を行った。范雎(はんしょ)に引退を勧めた蔡沢(さいたく)が宰相になった。が何の功績もなかったために3日で相の印を返上した。衛は魏の属国となり、陶は魏に攻められ滅んだ。魏冄が病死したからであった。呂不韋は魏冄が白起を見つけたように、未知の将器を発見しておく必要を感じていた。申欠は蒙驁(もうごう蒙傲)という日当たりの悪いところで王宮に吹く風の向きが変わるのを辛抱強く待っている者がいるといった。この孫が蒙恬である。昭襄王が死に、太子が秦王となり、孝文王と呼ばれることになる。孝文王が即位し、華陽夫人が王后となり、政と趙姫は邯鄲を発して咸陽に向かった。子楚が太子となった直後、秦王は在位僅か三日ですぐに死んでしまった。子楚が即位し荘襄王となる。小梠と政が呼び戻され、10歳の政は呂不韋に良い感情を持っておらず、呂不韋は失意を覚えたが、教育の力で徳操を育て靡薄にしてはならぬと決意した。呂不韋は、戦争の場裡において、あるいは、政争の場裡において、勝つという事の本義は、相手に越えられない何かを存立させることである。その何かとは相手を消滅する力ではなく、相手の争う心を失わせる仁徳の巨きさである、攻めるということは、つねに匡すということか、許すということでなければならない、と信じている。丞相となった呂不韋は蒙驁に軍を率いさせ、韓と東周が秦の邑を攻撃したため、韓の最大の軍事の邑二つを攻め落とさせた。かつて落とすことが出来なかった邑だったが、これらを落とすことに奏功し、秦の軍は捕虜と住人を無下に扱わなかったため、この噂は各地を駆け抜け、蒙驁の進撃は加速し、攻め落とした邑は十を超えた。35歳で荘襄王が亡くなった。呂不韋はさすがに落胆した。秦王となる政はこの時13歳だった。この頃一人の論客李斯が訪ねた。李斯は政に取り入り、政と李斯の毒牙は信陵君を噛んだ。政は陵墓の造営を始めた。呂不韋は無益なことをすると批判した。政が呂不韋から実権をはぎ取ろうとしているのを知り、呂不韋は身を引くことを考えたが、在野の碩学を集めて中国初となる百科の集成を始めることで政と対決する精神を明らかにした。そうした時に鄭国は灌漑のための大規模な用水路を造ってはどうかとかつての恩人呂不韋に提案した。後世に語り継がれる「鄭国渠」であった。呂不韋呂氏春秋を完成させた。申欠は戦ってはならぬ相手と戦っていると呂不韋にいうが、呂不韋は無形で無声の跡後詰めがある、武器を持たぬ民が本当の勝利を獲得するには長大な歳月を要する、わしはその会戦の初戦にあって千峰を受け持っているに過ぎないと返した。60歳で呂不韋は退き旅に出た。鮮乙、栗、袿、鮮芳を訪ねた後、陶に訪れ茜と再会した。政と1年足らずで決別した嫪毐(ろうあい)を討つために政は再び呂不韋を登用し、嫪毐は逃亡した。鄭国が韓の間諜であることが発覚して追放したが、巨大な渠は完成した。これが天下統一に多大な貢献をした。呂不韋は追放し毒をあおって河南で亡くなった。呂不韋の賓客が呂不韋をひそかに葬った。彼を敬仰する者が立ち去らないので政は退去命令を下した。