重慶からの手紙 日本は中国でなにをしたかⅡ 早乙女勝元編

1989年9月27日初版発行

 

表紙裏「推せんのことば-藤原彰女子栄養大学教授) 第二次大戦中のアメリカ軍のB二九による東京をはじめとする日本の諸都市にたいする空襲は、非戦闘員である一般国民を殺傷して、その戦意を喪失させることをねらったものであった。広島、長崎への原爆投下も同じ目的からである。そして、戦略爆撃として一般国民への大規模な無差別爆撃を行うことを創始したのが、日本軍による一九三八年以来の重慶爆撃である。日本がこの面でも、被害者であるより先きに加害者であったという事実の重みを、著者は現地から切々と訴えているのである。」

 

目次

成都からの手紙

夜行列車からの手紙

霖の街での手紙

残虐ということでの手紙

証言だけの手紙

18梯での手紙

重慶をあとにしての手紙

あとがき

さらにひとこと

 

・ある1枚の写真に目が針づけになった。下着をなくして尻をむき出しにした男が、女の肩に右手を回したままだらりと横たわり、その横に石段からずり落ちそうに倒れた女の、のけぞった顔からは鮮血が流れ、石段のなかほどには、二人の幼児が、まるでつぶされた人形のように、ちんまりと。幼児の上の段に目をやれば、乱雑に積み重ねられた死体の山。

 ほとんど裸のもあれば、下積になって、片手や両足をはみ出したものも数知れず、どろりとした血液が、石段からしみて下へ流れていく。

重慶は、大都市。市の人口は千1400万人で、北京市の940万人、上海市1200万人を抜いて、中国一の超過密都市。

・1年のうちの3分の1は深い霧におおわれる重慶は、長江と嘉陵江の二大河川が合流するところに、恐竜が首をもたげたような形で位置する山あいの都市。高い場所は海抜380メートル、一番低いところは朝天門で160メートル。その落差200メートル以上で半島形の町は中心地の高所から南北の二大河川に向かって段々畠以上の急傾斜になっている。どこの町でもおなじみの風物だったあの自転車の波を、全く見ることがない。坂と階段ばかりの町では、自転車はなんの役にも立たないからだ。町の中心地に入るにつれて、籠やら天秤棒を持った人が多くなる。

・陳栄安さん、劉潔玉さん、楊澤釣さん、白素芳さんの体験手記が掲載されている。