辰巳八景《下》 山本一力

2011年5月20日発行

 

佃島晴嵐

 深川で暮らす永代寺門前仲町の町医者新田正純は、父清三郎の「医は仁術」の教えを忠実に受け継ぎだ。ある夏、川遊びをしている時に妻ききょうを亡くすと、大井川に橋をかけることを決めた。以前の大火事で橋がなかったために人が死んだからだった。ききょうに支払われた過料と弔意金を架橋の費えにあて、正純の知らないうちに新田橋と名付けられ、橋の銘版が完成時に明らかとなり正純は絶句した。その後、火事で医院と新田橋が焼け落ち、父正純も亡くした町医者で娘かえでは、生きる気力を失うが、町の人たちから励まされ、家屋も橋もすっかり建て直しが行われた。焼け跡を消さないでというかえでの思いは口に出すことはできなかったが、桜の幹には焼け焦げた跡が残っていた。

 

洲崎の秋月

 江戸三味線屋の老舗の杵屋では、番頭の篤之助と跡取りの清次郎が接待役となり、江戸で五本の指に数えられる渡世人ましらの亥吉と代貸亥三郎の2人をもてなすことになった。座敷には、常磐検番の芸妓の厳助と仙吉が呼ばれた。厳助は、無遠慮で若い芸妓のお目付役も兼ねていた。当日、うかつな軽口を繰り返した仙吉に亥吉は怒りに震えて仙吉に詰め寄るが、厳助が見事に咄嗟の機転を利かせて難局を乗り切った。一部始終を目の当たりした三味線屋杵屋の跡取り息子から落籍話が持ち込まれるが、厳助は返事をすることができなかった。先輩の芸妓に相談すると、同じくかつて落籍の話があったが断ったという。周りの目を気にして返事が出来ないのなら周りの目を気にするなとも。先輩は芸妓が好きなので断って悔いはないという。厳助はきっぱりと思いを定めた。

 

やぐら下の夕照

 北品川飛脚宿の三代目遠藤屋良三は、かつて1度だけ会った事のある深川海辺大工町・大工の内儀弘衛の事を思い起こしていた。男だと思って手紙を出したら女だったが、その後も3年手紙のやり取りを続けていた。2人は1度夕日を見ただけで互いに別々の人生を歩んだ。良三は25年ぶりに文を出し、永代橋東詰の前で弘衛を待った。辺りの景色はすっかり変わっていた。弘衛は16の時からすっかり変わってしまった自分に気づいて永代橋に行くのやめにしようと、櫓の壁によりかかった時に思い至った。その時、良三からお久しぶりですと声を掛けられた。2人はあの日もいまもどちらの眺めもいいもんだと思った。会いに来てよかったと弘衛は胸の内で言い切った。

 

石場の暮雪

 絵草子作者になろうとしていた一清は、今は剣豪宮本武蔵を書き進めていた。明日が締切なのに雨が吹き込んできた。出先で雪駄の鼻緒が切れ、見ず知らずの履物屋の仕事場に入った。そこで出会ったのが深川古石場履物職人信吉の娘輝栄だった。一清が震えながら雪駄を差し出した。女職人を原稿の中に入れて書上げた。女職人の名を「おてる」と名づけ、版元江木屋から、武蔵が女履物職人に懸想するとは面白い、ただ職人が武蔵をどう思っているのかその気持ちが全く書かれていないのはいただけない、と褒められもし、辛口の評もされた。女職人に思い切って“あなたを思い描きつつ宮本武蔵の話を書いています”と正直に打ち明けて名を聞くと、偶然にも「輝栄(てるえ)」であったことを知った。以来、毎日、同じ文を律儀に届け続けた。輝栄にお見合いの話が舞い込んだが、『あなたと挙げる祝言を、毎日思い描いています。一清』との文を受け取り、お見合いの話を断った。輝栄は清一の戸を開き、「ふつつか者ですが、よろしくお願い申し上げます」と挨拶した。

 

 

 芳太郎...日本橋版元・江木屋の手代

巻末の縄田一男の解説によると、本作の題名の由来は、長唄『巽(辰巳)八景』に依っているらしい。長唄に全く疎い私には理解できないが、きっと見事なシンクロを効かせているのだろう。