辰巳八景《上》 山本一力

2011年5月20日発行

 

永代橋帰帆

 佐賀町河岸ろうそく問屋の4代目の大洲屋茂助は、昨年12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入りに喝采している江戸町民の姿を見て、公儀に逆らったのに義士扱いされるのに納得がいかなった。永代橋の材木は伊予藩の杉が大量に買い付けられたもので、架橋作業は伊予藩の国許から多くの職人を呼び寄せ、その世話は大洲屋が引き受けたこともあって永代橋に格別の思いを抱いていたところ、その永代橋は、ここを渡って高輪泉岳寺に向かった赤穂浪士により穢されたとの思いが強く、業腹な思いを抱えていた。年を越えて伊予松山藩松平家下屋敷へろうそくを納めに行く際に見掛けた白装束の16歳の大石主税が見せた武士の姿、池を見詰める主税の指先が小刻みに震えるのを見、「母上…」と呟いた姿を見て、茂助は、沙汰のむごさに思い至った。

 

永代寺晩鐘

 米の高値安定を図ろうとした吉宗は、米買い上げ策や江戸への精米運び入れをご法度とする触れを出したたため、煎餅屋を営む武蔵屋では、米が手に入らず頭を悩ませた。父親からそのことを聞いたおじゅんは憤った。縁談話を断ったので嫌がらせをしてきたのだと思ったからだ。永代寺の若い僧侶西悦は8歳の頃からおじゅんを知っていた。おじゅんからこの話を聞き、蔵前の米屋増田屋が永代寺に出入りしていたので、そこを紹介した。増田屋の惣領息子に見初められておじゅんを嫁に迎えたいとの話が持ち上がった。あまりに格上であるため躊躇していたが、躊躇した本当の理由に思い当たった。8歳の時に西悦に出会ってほのかな思いを抱いていた自分の心に今さらながらに気づいたのだった。おじゅんは西悦を再度訪ねて増田屋へと嫁ぐことを伝えて深いお辞儀をして去った。西悦は己が信じる仏道を思って実を結ばぬ思いを抑えつけた。悦は捨て鐘を討ちながらおじゅんに別れを告げた。永代寺が打つ鐘の値が深川に流れた。

 

仲町の夜雨

 深川冬木町の町内鳶のかしら政太郎とおこんは、18年前に祝言をあげた。が、おこんは30過ぎて2度目の流産を経験するものの子を授かることはなかった。政太郎は3年前から囲った妾のおみよはおこんも承知していた。どうしても子が欲しいという政太郎は当時22才のおみよを囲った。月のものが止まったおこんは身籠ったのではないかと思い、産婆に看てもらうが閉経だった。おこんは饅頭を手土産におみよを訪ね、おみよはたとえ授かったとしても、その子を政太郎に取り上げられるのが分かっており、それがつらくておこんに虚勢を張っていた。そのおみよのつさら、隠し持つ思いを切なく感じたおこんはおみよに子宝を求めるのは酷だと思い、養子の話を政太郎にすると思いを定めた。おこんは降りしきる夜雨に溶け込んでおみよから借りた傘をさして仲町のやぐらまで戻った。

 

木場の落雁

 行儀見習いのために奉公にあがったさくらは、木場・材木商妻籠屋の大内儀の吉野から、2度目の不作法を咎められた。さくらは深川汐見橋たもとに暮らす大工の棟梁の孝次郎の娘だった16歳になってしつけがきちんとできていないことを心配した孝次郎夫が見つけてきた奉公先だった。物の持ち方が、相手によって目通り、肩通り、乳通り、帯通りがあることを始め、一から小笠原流のしつけを教えられた。さくらは吉野の思慮深さに心から敬うようになり、落ち着いていて美しい言葉遣い、背筋を張って動く気品に満ちた所作を真似し始めた。互いに好き合っている間柄の弦太郎だったが、さくらは弦太朗の粗野が気になり、いつの間にか見下すようになっていた。母親のおかちはさくらの妻籠屋の真似をする様子を見て、何でも間でも同じというわけにはいかないと諭すが、さくらには得心がいかなかった。が、その直後、大横川のほとりで、三人の子どもたちが遊んでいるやり取りを聞いて、大切なのは身体の芯に生まれつき備わっている気性と心掛けであり、おのれの身の丈と分とを見失って立ち振る舞いだけ真似しても、それは滑稽で周りの者に窮屈な思いをさせるだけだとと気付いた。