花の歳月 宮城谷昌光

2015年6月10日発行

 

猗房(いぼう)の家に一人の老人、郷父老(きょうふろう)が訪ねてきた。里がまとまると郷になり、郷がまとまると県に、里は戸がまとまると里と呼ばれた。皇室が全国から名家の子女を集め、皇宮で養成することになり、県として一人選んで送り出すことになったため、推薦のあった家を訪ね、最後が猗房のいる竇(とう)家だった。竇家は夏王朝からの名門で、猗房が持っている声の大小、明暗、澄濁など、声の生まれつきの品格を見出した。猗房が代表に選ばれ、県の城に向かった。兄の建は郷父老の家まで送り、一晩を過ごして猗房は郷父老と県の城へ馬車で向かった。郷父老は猗房が選ばれると言った。他の郷の代表も集まり、全員で5名揃った。県令、警察の長官というべき県尉、監察の長官の県丞も揃っていた。猗房が選ばれ、明日、皇都の長安に行くことが決まった。猗房が選ばれたのは、天子を産む竇家の娘の猗房の眉から鼻にかけ至尊の色があらわれていたからだった。出発の前に母と兄の建、弟の広国との別れを済ませた。猗房は比較的に呂太后に近いところで仕えることになった。今の天子恵帝は呂太后の実子で19歳だった。長年のライバル戚姫との戦いに勝利した呂太后は残虐の限りを尽くして戚姫をいたぶり、その姿を恵帝に見せた。彼の心気はずたずたに裂かれた。長安に集められた若い娘たちは呂太后が各地の王に配る贈り物だった。猗房はもっとも遠方の代国へ行くことになった。代王は高祖の四番目の子で名を恒といった。高皇帝に愛されなかった。猗房は竇姫と呼称された。代王は14歳だったが落ち着きがあり、目にたたえられている深い慈愛の色は猗房の胸に染みた。代王と並んで代王を産んだ薄姫が座っていた。代王と薄姫は呂太后が送り出した猗房を鄭重に扱ったが、それは恫恐の現れでもあった。代王には既に正室がいたので妾になったが、代王は猗房を見た瞬間に、まれに見る清美な姫だと感じ、心が動いた。猗房は、嫖と名付けられた女の子を出産し、一年後にも啓と名付けられた男児を産んだ。代王は猗房から生家の貧しさを聞かされ聴政にも熱心になった。臣下にも好感をもたれた。猗房が男の子の武を産んでから顔色が冴えないのを気遣った薄姫が猗房の心配事を聞き出すと、猗房が実家に便りを出すと、父母は既に亡くなり、兄と弟の行方が知れないとのことだった。中央では2年前に恵帝が崩御し、呂太后の専恣はさらに酷くなった。そんな時、粗衣を着た男が代国の城中に入ってきた。兄の建だった。広国は人攫いに攫われたとのことだった。広国は12年間に12回ほど転売された。16歳になっていた。呂太后が死んだ。広国は時の主人に気に入られて奴隷から解放された。新しい天子は徳が高く、世評も高い。皇后は竇氏という。広国はそれを聞いて驚いた。呂太后の専横を憎んでいた長安の顕官たちは、呂太后の死を見極めると二ヶ月で呂氏一族を粛清した。官僚が恐れたのは外戚の良否だったが、代王の恒が選ばれ、太子・啓の生母の竇姫が皇后に立てられた。皇帝が自ら広国と引見し、猗房が物陰に隠れて広国を見た。広国は姉弟しかしらない過去の出来事を語るうちに竇姫は弟に走り寄って抱きしめた。司馬遷はこれを『史記』に「侍御左右、皆、地に伏して泣き、皇后の悲哀を助く」と描写した。皇帝・恒は死後文帝(孝文皇帝)と呼ばれる。劉邦を除けば、前漢王朝類代の皇帝の中で最高の帝徳を持っていたといわれる。広国は皇太后の弟でありながら、君子としての態度を崩さず、生涯驕りを見せなかった。広国は奴隷時代に体を張って守ってくれた蘭をある時見つけた。蘭は自分が知り合いだと知られてはいけないと咄嗟に自分は蘭でないと否定した。が、広国は“おれの目はふし穴じゃねえよ。御主人の位牌にゃ悪いが、たったいま、奥方をおくれがさらってゆくことにしたのさ”というと、蘭の目にはまたたくまに涙が張られ、地の照り返しをうけて、きらきらと輝きはじめた。

 

巻末の藤原正彦の解説に「宮城谷作品は、言わば、古代中国という原材料を、西欧的理論という樽に入れ、日本的情緒でじっくり発酵させたものである」「文章自体の視覚的イメージを大切にするという美意識は、ほんらい詩人歌人俳人のものと思われる。これを氏ほど徹底して追求する作家は稀であろう」とあった。至極、宮城谷作品の良質部分を端的に言い表している。同感である。