孔子《下》 井上靖

2006年11月20日発行

 

巻末の曾根博義の解説によると、本作は『論語』がどのようにして成立したのかその成立過程を想像力を駆使して描いた小説だという。井上靖は様々な人間関係のなかで師弟関係がいちばん好ましいと考えていた。弟子が亡き師について語るという形式は70代で書かれた『本覺坊遺文』と同じ形式だが、本作は孔子研究会の会員たちと蔫薑との質疑応答という形式をとることで立体的になり、蔫薑の物語としての『孔子』は乱世のなかで国を失った人間が、師の言葉を思い起しながら、人間として何が重要なのかを考え、世の平和を希うという物語であるとのことである。

孔子の思想のまん中に坐っている“仁”というものは、いかなるものか。

“巧言令色、鮮なし仁” “ただ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む” “剛毅朴訥、仁に近し” “仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯に仁至る” “人に仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば、楽を如何せん。” “志士、仁人は、生を求めて、以て仁を害することなし。身を殺して、以て仁を成すこと有り” “一言にして以て修身、これを行なうべきものやありや。それ恕か。己れの欲せざる所を人に施す勿かれ”。

蔫薑に対し、孔子論を語って頂きたいとの要望に、蔫薑は、前提として、孔子は、“死生、命あり、富貴、天に在り”と考えていた、その上で、人間は倖せになるにはどうすればいいか、不幸になるのを防ぐにはどうすればいいかを孔子は考えていた、そしてそれには人間はお互いに相手を労る優しい心を持ち、お互いに援け合って、乱れた世をやはりこの世に生まれて来て良かったと思うように生きようではないか、そういう“仁”の考え方が根本にあったという。その上で蔫薑は“心、謙虚に、天に対し、天に仕えよ”という自らの思索の結論を語る。孔子は後事を子路・子貢・顔回の3人に託そうとしたが、昭王が死に、顔回が死に、天は我を見捨てたと嘆いた。孔子が昭王に会おうとした目的は顔回子路、子貢を昭王に紹介して仕官の道を開くためだったのに昭王が死に、やむなく負函をあとにして魯国への帰途についた。その途中、自分にとっての故里ではないものの、今や本当の故里は消えてしまい、集落に燈火が入りつつある光景を見て、今住んでいる村と負函だけが故里であり心の拠り所だと思うところが印象的である(ここは解説者の解説内容に沿った)。