楽毅 第3巻 宮城谷昌光

1998年10月20日発行

 

郭隗は自らを訪ねてきた楽毅に会うべきか考え込んだが覚悟を決めて会った。楽毅は郭隗に「唇亡歯寒」(しんぼうしかん)、中山が唇で、燕が歯。唇亡びなば、歯寒しと言った。中山が滅亡すれば、燕は趙をはばからねばならないの意だった。郭隗のいう通りにして楽毅は名を羊裔と名乗り、燕の昭王に拝謁したが援助は得られなかった。楽毅に会った昭王は、楽毅を千里の馬だと思い、臣下に欲しいと思ったが、楽毅は武陽をあとにした。武霊王は中山攻略で残った東の中山王尚のいる扶柳を攻めた。戻った楽毅は郊昔らを交えて地図上で模擬戦を行い2つの砦を新たに造った。孟嘗君が斉を離れて秦に移ったようだった。武霊王が引退し、国を12歳の太子の何に譲り渡し、恵文王と呼ばれた。もっとも実権は握り続け、主父と呼ばれた。孟嘗君は咸陽を出て函谷関を脱し斉に帰り着いた。斉王と孟嘗君は秦に兵を起こしたその間に主父は中山王尚のいる扶柳をつぶそうとしていた。狐祥が楽毅の子楽間を産んだ。楽毅は扶柳に入り中山王尚を呼沱の砦に逃がした。呼沱で激戦が行われ、楽毅が指揮し、扶柳から呼沱に辿り着いた七百に呼沱の三千の兵を加えた兵で、十万という趙軍と対峙した。かつて太公望は周の武王の軍師として7万の兵力で10倍の殷軍70万を撃破したが、楽毅の場合は25倍の差だった。趙軍には趙与もいたが趙与だけは楽毅を侮らなかったが、十万の兵に頼った趙軍には策というものがなかった。西方では斉、韓、魏の連合軍が孟嘗君の指揮の下、秦軍を撃破した。依然趙軍は中山を攻略しきないが、桃色吐息で懊悩した中山王尚は、西の辺邑である膚施に移るとの趙の降伏条件を受け入れた。中山は滅亡した。趙与は楽毅を主父に推挙したいと伝えたが、楽毅は返事をしなかった。妻子のいる趙の首都邯鄲に向かった。主夫は章でも何もでなく勝にこそ国を任せるべきと考え、勝が楽毅を召し抱えたいであれば自分が召し抱えて引き継がせよう思い、趙与を通じて楽毅に再び召し抱えたいとの話を伝えた。趙では恵文王と安陽君の主導権を巡る争いが激しくなった。恵文王は昔は主父から寵愛を受けていたが、今では安陽君と勝に寵愛が注がれているのを感じていた。安陽君は恵文王を暗殺する計画を立て実行した。が恵文王の身代わりが殺されただけだった。恵文王は謀叛であるとして安陽王を討とうとした。ところが主父は動かない。夢か幻か、李兌は唐挙から百日以内に政権を握ると聞かされた。恵文王に叔父の公子成の援軍がついた。安陽君が死んだ。恵文王は主父に赦しをこえば誅殺されることが分かっていた。主父は沙丘で餓死した。楽毅は趙ではなく魏に向かった。