子産《下》 宮城谷昌光

2003年10月15日第1刷発行 2004年11月25日第4刷発行

 

裏表紙「謀叛に巻きこまれ、子国は果てる。3年の長きにわたり喪に服した子産はその後、苛烈なる改革者にして情意あふれる恵人として、人を活かす礼とは何かを極め、鄭と運命をともにしていく。時代を超えることばをもった最初の人・子産とその時代を、比類なき風格と凛然たる文体で描く、宮城谷文学の傑作長編!」

 

8歳になった簡公に23歳の子産は仕えることになった。晋と講和すべきか否かの御前会議に、君の臨席の下、子駟、子国、子耳、子孔が集まる。子国は、楚と和している鄭は和を尊重して、初めて晋と和睦できると述べ、子駟を嚇怒させた。子国は司馬を辞し、子駟も後事を託したらいかがと勧説した。尉止らが宮門を突破し中に突入して子国や子駟らを殺した。子産は鬼神も驚く速さで簡公の救出に向かった。子孔が宰相となり、子産は3年喪に服した。楚王が亡くなり公子昭が即位した。後の康王である。子産は大臣の子蟜に認められた。晋と秦がぶつかった。鄭は秦の追撃を阻止した。晋の悼公が若くして29歳で亡くなった。晋は許を伐つことになり、鄭は仇敵であることから参戦しようとしたが、楚の康王は許を授けよと下命した。楚軍は大敗した。子蟜が亡くなり、子孔が専制をし始めた。子孔が楚と通じている証拠を探し、三卿が殺された西宮事件の再調査をした子展が子孔を告訴すると、子孔は逃亡し、最後は殺された。子展が宰相となり四卿のほかに子産も卿に登った。子産は晋の宰相に強諫に近い書翰を送った。「徳は、国家の基なり。基あらば壊るるなし。またこれを務むることなからんや。徳あらばすなわち楽しむ。楽しまばすなわち能く久し(楽則能久)」は名言である。時代を越えてゆく言葉をもったのは子産が最初の人であった。晋の宰相が子会から趙武士に代わった。趙武も徳政を理想とした。鄭は陳を伐った。その報告をするために晋を訪問した子産は、順序が逆でないかとの問いに答えるために、修辞をもってこれを説いた。これにより修辞は子産より発したと、後世、信じられるようになった。鄭が楚と秦の連合軍に急襲された。33年ぶりに諸侯が集まって戦争停止の大会が宋で開催された。子展が亡くなり嫡子の子皮が継いだ。呉の君子季札と子産が会う。鄭の伯有の侈りを見抜き災難を予測し、その後政柄が子産の手に届くから礼をもって慎重に行うよう予言した。子皮と伯有の対立が抜き差しならないのを見て子産は鄭を出ようとするが、子皮は必死に留める。伯有が滅び、子皮は子産に国政を任せたいと依頼する。改革に次ぐ改革を行った子産を支え抜いたのが子皮だった。簡公の薨去の翌年に子皮が死に子産は哭泣(こっきゅう)した。

 

あとがきによると、子産の死を知った孔子は「古の遺愛なり」と言った。このとき孔子は30歳か31歳。孔子は周公旦と子産を尊敬した。周は革命家で、子産は改革者である。固有名詞はすべて史書経書にあるものである。とのことである。

子産から、政治とはどうあるべきかと問われた然明が「民を視ること、子のごとく、不仁者をみれば、これを誅すること、鷹鶻(ようせん)の鳥雀を逐うごとくす」と答えた場面はカッコいい。