沙中の回廊 下 宮城谷昌光

2004年12月10日第1刷 2018年2月25日第5刷

 

裏表紙「『礼をおこたった晋は欺瞞の国になる。』苦悩の果て、覇権争いに乱れた祖国を離れ秦に亡命した士会は、君主に重用され平和な日々を送る。しかし、危難にある晋からの使者が再び士会のもとを訪れる―。徳を積み、知謀の限りを尽くして国を救った天才兵法家の一生を、多彩な人物が息づく古代中国に描きだした傑作歴史長編。」

 

趙盾(とん)は秦にいる文公の子の公子雍を迎えようとした。実現すれば秦との友好が回復する。士会は同意した。ところが狐射姑は楽の名を挙げて反対した。趙盾は士会と先蔑を秦に遣わした。二人が秦に足止めになった間、晋では趙氏と狐氏の格闘が繰り広げられた。趙盾は変心して公子雍の擁立をやめ、太子を君主にしてしまった。士会は趙盾の二枚舌を許せず、耐え難かったため秦へ亡命した。亡命は趙盾への最大の批判となり、士会という大夫の大きさと奥行きの深さを示すものだった。秦の康公は士会を軍事顧問にし北徴を攻める時に帷幄に招いた。士会の異才に気がついたのは、秦の中では白乙丙だけだった。士会は抱える家族が千五百を超え、心に平和を感じていた。が秦と晋の間には平和はなかった。秦は晋をせめるべく出師し、士会も従った。趙盾は士会を晋に呼び戻す手だてを郤缺に考えさせ、一計を講じて士会を連れ戻した。士会は以前に助けた男が郤缺だと知った。郤缺は自分が隠退する時に士会を上軍の将に推す、息子の郤克を教育してもらいたいと願った。士会は兄を殺した趙盾を赦すことができず、郤缺に趙盾と距離を保つことを望んだ。楚王が死んだため諸侯は晋の盟下に戻った。楚を継いだ荘王はわざと愚昧な姿を示し、心服していない者を見極めた。士会が51歳の時、南方で荘王は豹変し粛清を行い軍を発した。晋の霊公は趙盾を殺そうとし、趙盾は亡命を図った。が霊公が殺されたと聞いて舞い戻った。成公が継ぎ、趙盾は廟堂から去った。荀林父(じゅんりんぽ)が宰相になり、次いで郤缺、先穀、士会の席次となった。上軍の将は先穀、佐に士会となる。士会は鄭城を包囲せず、南下して楚の国土を侵す姿を示せば、鄭を恐れさせ、鄭から降伏の使者がくるといった。先穀には全く理解できない作戦だったが、その通りとなった。ところが楚の荘王の言動はそれ上に驚嘆させた。周の天子に対し、鼎の大小と軽重を問い、天下を治める力がなければ天子の座と鼎を譲ってはどうかと暗に言ったのだ。だが王孫満は天命の一語で荘王と楚軍を退けた。楚の軍が鄭を囲み、晋軍は鄭に援軍を出した。中軍の将(全軍)の指揮官は荀林父、士会は上軍の将。鄭が楚と和睦した。士会は楚と戦えば負けるので引き上げるべきと言い、荀林父もそう考えたが、中軍の佐である先穀がこれに反対した。楚に向かった使者は和睦のはずだったが、急襲を仕掛け、かえって晋軍は窮地に追い込まれた。中軍全滅の危機を迎えた士会は自ら殿軍を務め、上軍の兵も損なうことなく引き上げさせた。晋は覇権を失った。先穀は悖道に堕ち、自滅した。晋は解揚を栄への使者に出し晋の軍が間もなく起つと伝えようとした。解揚は途中で捕らわれ楚王のもとに送られた。楚王は解揚に賄賂を贈り、晋軍は来ないと言うよう迫った。晋軍が来ないと知れば栄が気落ちすると楚王は考えたからだった。解揚は応じるふりをして城壁の上から晋軍は間もなく到着すると叫んだ。楚王は一旦は怒りを発したが、信を貫いた解揚への怒気を斂めて還した。楚の昭王の寛容と解揚の不屈さが比類のないものとなった。荀林父が逝去し、士会が宰相となると、法を整備した。士会が整備した法は范武士の法と呼ばれ、士蔿の法とともに晋の国法となる。