昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷
①幼年時代、分教場時代
②本校時代、山口時代
③広島時代、東京遊学
④五高入学、高校時代
⑤東大時代
⑥教師時代・結婚
⑦うまくいかぬ転業
⑧浪人生活
⑨カルピス入社
⑩企業整理・宝田石油へ
⑪日石と合併
⑫側近奉仕
⑬下松へ赴任
⑭終戦
⑮上京果せず、命拾い
⑯カルテックスと提携
⑰初めて洋行
⑱社長の就任
・明治21年5月17日、山口県宇部市の本願寺派浄覚寺で生まれた。小学校に上がると脊椎病でマヒが右脚に残った。第四仏教中学(現在の崇徳高等学校)卒業後、第一仏中に編入し五高に入学。一部甲類を卒業し東京の大学に入り文科を卒業すると母校第一仏中の教師を5年経験した。結婚後、肺病を患い、催眠術を習い協同診療で成功した。教師の手当が突然打ち切られたのを契機に教師を辞めて方向転換。浪人生活を送った後、乳酸菌普及の念願に基づいて創立したカルピスに入社。だがカルピスは大整理を余儀なくされ、宝田石油に。日本石油と合同統一し、秘書課に配属されて側近奉仕が始まった。定年目前で取締役となるものの、終戦は郷家で迎えた。工場は4工場のみ残っただけだった。昭和21年11月には常務以上が一掃されたが、太平洋岸製油所の操業が禁止されていたので、お手上げだった。25年から活気に満ち始めたが、31年にスエズ運河閉鎖を転機として極度の不況に襲われ、33年社長が急死し社長に就任した。(昭和36年日石会長に就任。39年同社相談役。40年12月18日死去)