私の履歴書 藤山愛一郎(外相) 日本経済新聞社 経済人2

昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷

 

①選挙用の名を付けられる

慶應義塾のころ

③一時は危篤に陥る

④英国遊学

⑤青年社長となる

⑥難しい発明家との事業

⑦生命保険に新機軸

⑧「大日本精糖」

⑨父の後を継ぐ

⑩株式取引所理事

日商会頭に就任

⑫東条内閣打倒に一役買う

公職追放のころ

⑭財界復帰後の活躍

⑮責任感から外相で入閣

 

明治30年5月22日東京生まれ。父は王子製紙の専務取締役をしていた。慶応に進み、中高で、歌舞伎、オペラ、バレエ、展覧会、文学書に親しみ、スポーツにも専念。大学は政治科に進み、夏休みに中国旅行へ出かけた。帰国後肋膜炎になり療養生活を続けた。欧米旅行後に英国遊学した後はサラリーマンにあるべきではないと父から一括され、カーネーション栽培会社を始めた後、池田化学という色の会社をやった。上手くいかず閉鎖した後、日本金銭登録機の工場を持った。これらの経験から発明家と一緒に事業をしてはならないことを学んだ。30代で金融事業に多少首を突っ込み、有隣保険の再建に当たった。大日本精糖には監査役として入った。ここは明治の一大疑獄と言われた入糖事件があり、父が社長として私財をなげうち梃子入れした会社だった。昭和9年に父の後を継いで大日本精糖の社長に就任した。東京株式取引所の理事をやり、帝国劇場の取締役、三越の取締役も引き受けた。中国でも蘇州と香港に現地法人を作り社長を勤めた。昭和16年に東京、日本両商工会議所会頭に就任し、終戦の翌年まで会頭の仕事をした。戦争末期には鈴木貫太郎内閣の顧問をしていた。敗戦で大打撃を受け、追放令を受けた後会頭を辞職し隠遁生活に入った。日東化学立ち直ることが出来、大日本精糖も再建し、日本第二位の設備能力を持つ精糖会社に発展した。追放が解除されると、再び両会議所会頭に就任。五団体が包含される形になっていたのを平等にし、経団連会長は構成五団体の各会長の持ち回りとし、五団体会長会議を経団連運営の再興会議とするよう提案した。結局、昭和27年、経団連と日照は共同声明の形で、経団連は鉱工業、金融、保険、貿易、交通、農業など各経済分野を包括する業種別系列の総合団体として、日本商工会議所は各地の会議所よりなる地域別系列の総会団体として組織上相独立してそれぞれの性格に応じた活動を行うことにし、運営に当たっては相互に緊密な友好関係を保持し相携えて日本経済の再建に努力することになった。(昭和35年日米安保条約改定の際に外相として対米交渉にあたる。33年以来、神奈川県より衆議院議員に当選。経企庁長官や自民党総務会長なども歴任した。日中国交回復にも尽力。昭和50年政界引退を表明。現在、日本国際貿易促進協会会長)