お茶をどうぞ 私の履歴書 千宗室

昭和62年7月21日1刷

・表、裏、武者小路は俗称で、正式には千家不審庵、今日庵官休庵と呼ぶ。藪之内、遠州、石州はそれぞれ興した流儀で何々流という言い方をする。利休居士の先を遡ると、清和天皇から始まり源氏の正統を引く由緒ある武門である。日本にお茶が入ってきたのは鎌倉時代の初めで、喫茶の習慣がひとつの道になったのは室町時代。利休居士の子少庵は蒲生氏郷にお預けとなった後、千家再興が許され、少庵は現在表、裏両千家のある小川通り沿いに土地を与えられ、その子元伯宗旦が三世を継いだ。宗旦は小川のほとりの不審庵(現表千家)にこもって佗茶一筋の生活を続けた。宗旦には4人の子があり、不審庵を宗左に、隣に今日庵を建て宗室と共に移り住み、千家不審庵(表千家)と千家今日庵裏千家)が生まれた。宗守は高松藩に仕官した後、小川の下流武者小路通りに官休庵武者小路千家)を建てた。表・裏に本家分家はなく、正しく伝承する家元同士で宗簇として固い結束を守っている。

明治維新は茶道史上最大の危機だった。裏千家の当主11世玄々斎宗室は「茶道の源意」を書き、三千家連署の上で提出し、道としての茶を認めさせた。家元という形が確立したのも明治維新以降。玄々斎は大衆化への道を開き、私が15世鵬斎宗室である。同社中高大と進み、戦後復員した私はお茶をもって世界の人たちに日本人の心を伝えていくことが生き残った私に与えられた使命であり、多くの戦友のためにもお茶人としての私のなすべきことだと考えた。これが戦後の出発点となった。繰り上げ卒業となり、府立第二高等女学校(元朱雀高校)の茶儀科嘱託講師となった。

・千家では家元すなわち庵主になるためには大徳寺管長から直接、安名、道号、斎号を頂き、在家出家することになっている。アメリカでの見聞で得た体験、知識を会議所で生かしてほしいと入会を勧められ、青年会議所、京都南ロータリークラブに入会した。34年には日本青年会議所会頭に就任し、38年には国際青年会議所副会頭を務めた。ワコール社長の塚本幸一君、イセト紙工社長の小谷隆一君の3人で話し合い、大正と昭和を合体させた正和会をつくり、京都実業家ら25名がメンバーになっている。表千家では同門会、裏千家淡交会という手前・作法の全国統一、同門社中の結束と親睦を目的とする会員組織がある。淡交会は社団法人としての認可を受け、理事長を務める私は総会で青年部創設を提案した。また将来の指導者育成のために茶道研修所(現裏遷化学園)を始めた。唯一の茶道教育の専門学校として学校法人の認可も受け、各学年30人、外国から常時15人、社会人を対象にしたコースも設けている。

・お茶盌を回すのは、亭主が差し出した正面から飲むのを遠慮して後ろから頂きますという意味で回す、大きく回せば1回、小さく回せば2回で後ろになる。謙虚に、自分を一歩下げてありがたく頂戴するという教えに基づく。懐石は元来は禅の世界から出ている。茶事では湯加減を整える間に懐石料理が出される。