天子蒙塵(二) 浅田次郎

2016年12月6日第1刷発行

 

帯封「北の曠野で一人抗う男は叫び続けた。我に山河を返せ。ついに日本の軍部もその存在を知るところとなった天体の具体『龍玉』は今、誰の手に。」「謀略渦巻く満州の底知れぬ闇。父・張作霖を爆殺された張学良に代わって、関東軍にひとり抗い続けた馬占山。1931年、彼は同じく張作霖側近だった張景恵からの説得を受け、一度は日本にまつろうが―。一方、満洲国建国を急ぐ日本と、大陸の動静を注視する国際連盟の狭間で、溥儀は深い孤独に沈み込んでいた。」

 

第二章 還我河山

溥儀は新国家の立場が皇帝でなく執政であることを承認した。土肥原大佐がいずれ帝政に移行し皇帝に推戴することを確約したからだ。副頭目と呼ばれた馬占山(秀芳)は黒竜江省長と軍政部総長の就任を張景恵から聞かされ、単身で多門師団長との面談に応じた。張作霖の軍事顧問として大陸にいた吉永将は満州事変の爆破事件で足を失い牛込陸軍省軍務局軍事課長永田鉄山の見舞いを受けた。満州事変は特務機関長の土肥原大佐が謀略の絵図を描き、板垣高級参謀と作戦主任参謀の石原中佐が実行したもので、彼らが越権と下剋上によって支配する関東軍満州の野に放たれた猛獣と化していたため、永田は情報や謀略を統轄する参謀本部第二部長に就任することで軍令上特務機関を制御できると考えていた。馬占山が独立国を承認しなかったのは国際連盟の調査団が満州に到着する時間稼ぎのためだった。馬占山から銃弾2発を食らった志津が黒竜江省公署の省庁室に向かうと、純白の壁に墨痕淋漓として「還我河山」(我に山河を返せ)の文字が書き列べられていた。取り調べでは匪賊の犯行と説明したが、現場に同行して人として馬占山を知りたがっていた酒井大尉にだけは本当の犯人は馬占山であることを打ち上げた。馬占山は満州国を去って北でふたたび日本との抵抗戦を開始した。吉永中佐は陸軍大学校教官として現場復帰した。永田は吉永に電話一本で呼び付けられる場所にいて貰いたいと告げ、日本を引きずり廻した関東軍の幕僚たちを切り離そうとした。武藤大将が関東軍司令官に就任した。下士官から関東軍司令官兼関東長官漢満州国駐在特命全権大使に登り詰めた武藤閣下を出迎えたのは溥儀の政府を輔弼する筆頭参議の張景恵だった。志津は特務機関員の任を解かれて武藤大将の専属通訳となった。武藤は溥儀との定例会見で前任者の約束を引き継ぐことを明言し、梁文秀は吉永に長文の手紙を書き、永田や吉永に期待を託した。