昭和59年4月3日1版1刷
①父、兄を継いで女形に
②初代は江戸中期に活躍
③定紋
④祖父と父
⑤父の芸風
⑥脱臼・手術
⑦千駄ヶ谷御殿
⑧初舞台
⑨大震災
⑩英グロスター公台覧
⑪青年歌舞伎
⑫六代目福助襲名
⑬父の踊りの弟子と結婚
⑭芝翫襲名
⑮日比谷に降る焼夷弾
⑯疎開
⑰芝居解禁
⑱文部大臣賞
⑲六代目歌右衛門を襲名
⑳天覧
㉑新派、新劇の名作共演
㉒三島由紀夫先生
㉓妻の死
㉕役の思い出
㉖海外公演
㉗外国旅行と動物園巡り
㉘芸の花
・初代の中村歌右衛門は加賀金沢の前田家の御典医の二男として生まれ中村座で鉄壁武兵衛の役で人気を博し、その後大阪へ帰り、実悪の第一人者といわれた。二代目も実悪の巧者といわれた。三代目は忠臣蔵の七役を演じ江戸でも有名になり、古今無類芸頭の最上位となる。四代目から屋号は成駒屋となり、五代目が私の父。女形専門となり、昭和初期の歌舞伎界に君臨した。初代は屋号を加賀屋とし三代目まで加賀屋。定紋の祇園守は巻物のぶっちかいの図案だが、前田公が祇園守という筒にお守りを入れて持ち歩いたことに由来する。
・大正6年1月20日千駄ヶ谷生まれ。生まれつき左の腰が脱臼していたため、手術・再手術を受け4歳終わり頃にどうにか一人で歩けるようになるが左足は不自由だった。5歳から踊りの稽古の手ほどきを受け、三味線とお琴を教わる。17歳の時、児太郎改め六代目中村福助を襲名。24歳の時歌舞伎座で父の前名六代目中村芝翫を襲名。20年11月、東劇で戦後初めて出演。21年正月興行は帝劇で紀伊国屋、播磨屋の一座で演じた。23年になると、東劇と帝劇と4つの劇場で交互に出演できるようになる。芝翫を襲名後、役者をやめようと一大決心したことがあったが、大谷松竹社長の一言で舞台を続ける決心がつき舞台に打ち込んだ。戦後直後は忠臣蔵は上演禁止とされたが、24年頃から進駐軍誹謗以外は自由になった。同じ年六代目歌右衛門を襲名。27年頃は東京の歌舞伎界は菊五郎劇団と吉右衛門劇団の2つの劇団があったが、蕾会をつくって共演させて頂くことになった。先代萩の政岡は女形の横綱といえる。海外公演は35年のアメリカ公演を始め6回ほど出掛けた。アメリカのお客さんが一番喜んだのは壷坂だった。芸術院賞、芸術院会員選任、文化勲章を受け、重要無形文化財産保持者、文化功労者の指定を受けたほか、日本俳優協会会長、芸団協の会長を仰せつかった。役者は花が大事。花とは“はなやかさ”“色気”“つや”“気品”等を意味する。花を忘れることなく命の続く限り舞台に立ちたい。