石原廣一郎(石原産業会長・社長)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①菅公誕生の地に育つ

②結婚してマレー半島

③鉄鉱石を発見して、事業化へ

④苦境を乗越え第一船入港

ジョホール国王から勲章

⑥日蘭合弁事業の挫折

⑦ジャワ航路開設と日本の進出

⑧政界の刷新を志して「神武会」を発足

二・二六事件青年将校たち

四日市工場地帯開発のこと

⑪東条内閣成立から敗戦まで

巣鴨での反省

⑬従業員の遺族と慰問

⑭「よく働いて世嗣を」が人間の使命

 

明治23年1月末、自作農の長男として京都で生まれる。20歳の時、京都府庁農業技手を拝命を拝命し、耕地整理の測量に携わった。ゴム栽培事業をやるために海外に出国したが、マレーで鉱山開発を目標にした。融資を得られず最後に川崎造船所所長の松方幸次郎氏を訪ねると、造船所の株式を担保に台湾銀行から75万円の猶子を受けることが出来た。苦労が実りマレーは南方有数の鉄鋼供給地となった。運賃問題を解決するため鉱石輸送専門の船腹を所有することに決め、台湾銀行頭取を相談し、低金資金の貸与を受けることに成功し、次にフィリピンでの鉄山開発を手掛け、昭和20年までの25年間で我が国原鉱使用量45%を賄ったが、敗戦で海外事業を全て失った。昭和11年京都府2区から総選挙に立候補したが落選した。2・26事件の際は栗原中尉に渡した五千円が決起当日出勤したトラックの代金等に使われたため拘留され軍法会議に掛けられ禁固10年以上は覚悟していたが、大将2名が無罪になったので私も無罪になった。戦後、民間人として戦犯として拘留され、起訴された後、昭和23年に釈放された。石原合名会社は地方財閥解体で解散させられた。昭和24年以降、鹿児島、市国、中国、関東から秋田まで3か月費やして40名の亡くなった従業員の墓に参って供養し遺族を弔問した。昭和26年に追放解除となり、取締役会長に復帰した。除草剤の製造販売を手掛け、トップメーカーの地位を占めることが出来た。(昭和45年4月16日死去)