昭和58年10月5日1版1刷 昭和60年3月20日1版3刷
①恵まれた詩歌への道
②家は没落、学校は落第
③光太郎や白秋らと知り合う
④懐しい「五足の靴」
⑤第一歌集「酒ほがひ」出版
⑥自由劇場第一回公演の感動
⑦雑誌「人間」発刊のころ
⑧草蘆の炉端の人生修業
⑨歌行脚-新生の京都へ
⑩「生死関頭」の重患
⑪疎開-雪の中の“暗い日々”
⑫人生行路にようやく光明
⑬苦心した都踊の歌詞
⑭もうしばらく世のなりゆきを
・明治19年10月8日東京市芝区高輪で生まれた。中学校を卒業後、「明星」の主宰者与謝野寛先生に入門しようと、その結社の東京新詩社に入社した。が先生の束縛に耐えられず北原白秋らと共に新詩社を脱退した。鴎外先生が調停されて和解ができ、雑誌「スバル」が誕生した。一時期、歌より戯曲に熱中したが、戯曲熱が下火になると、本来の歌に立ち帰った。大正15年に家督相続し、父の負債を引き受けた後は旅で暮らすようになる。孝子と結婚して再び起つことできた。終戦前後は京都で過ごした。(昭和35年11月19日死去)