昭和58年10月5日1版1刷 昭和60年3月20日1版3刷
①月二十円平均の原稿生活へ
②「瞼の母」初演
③忠太郎のモデル
④瞼の父を訪ねて
⑤「瞼の母」映画化
⑥父と母と
⑦小僧、土工から新聞記者に
⑧尋ね旅
⑨“瞼うえしたあわせりあ…”
⑩七十二歳の母は健在
⑪母に会う決心
⑫邸の前を往きつ戻りつ
⑬応対の母は気がつかず
⑭辞して出れば昼のような月
⑮再会記念会
・戯曲「瞼の母」二幕は37本目の戯曲。昭和5年1月25日から31日まで客を謝絶し取り掛かり73枚に出来上がり、雑誌「騒人」に載せた。上演は翌3月の明治座。片岡千恵蔵君が「瞼の母」を映画劇にして大当たりをとった。兄は42歳で死ぬまで私に母について一言も言わなかった。兄が7つ、私が4つの時、母が泣く泣く去った。小学校を終え、船梁の工事の請負師に住み込み孤城に入り、現場小僧に拾われ、土木の世界に入り、新聞記者になった。42歳の頃、母に逢いたくて旅に出た。50近くで再び旅に出た。52歳の時、母の所在を突然教えられた。松本恵子さんは西欧小説の翻訳家として知られるが、手紙をくれた。熱海に行き、電光石火の速さで会う決心がついた。朝日新聞に記事が出て様々な手紙が寄せられた。再会記念の会が友人たちの発起で帝国ホテルで催された。昭和21年2月23日85歳で母は世を去った。(昭和38年6月11日死去)