私の履歴書 松下幸之助(松下電器産業相談役) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和59年2月23日1版15刷

 

①父が米相場で失敗する

②小僧時代

③電灯会社時代

④創業時代

松下電器の運命をかける

⑥昭和2年の恐慌

⑦発展時代

⑧労組の擁護運動で追放取め

⑨会社再建めざし米国視察

⑩フィリップス社と提携

⑪中川電機と日本ビクターを引き受ける

⑫五カ年計画で売上四倍を

⑬輸出増大を図る

⑭会長に就任、経営見守る

⑮甘えた「所得倍増論」に警鐘

⑯四十年不況で陣頭指揮に

⑰“ダム経営”のもと週五日制

⑱経営は芸術、賃金でも欧州抜く

⑲創業五十周年記念式典

⑳過疎地振興と万博「松下館」

㉑会長退任、決意新たに(①~昭和31年8月、⑨~昭和51年1月)

 

・小学校4年の時に火鉢屋の小僧から社会生活がスタートした。3か月すると店を閉め自転車店の奉公に行くことに。6年後セメント会社の運搬人夫に雇われ、3か月後に大阪電灯の営業所内線係に欠員が出ていくことに。屋内配線工事担当者の助手を3か月した後に担当者に昇格する。20歳で夜学に通い、6時半から9時半までの3時間授業を1年間続けた。22歳で結婚し、22歳で検査員に昇格。自分で新しいソケットを作ろうと退社する。新しいソケット作りは失敗したが、扇風機の陶器碍盤をネリモノに替えたいと注文を受注して製作に成功して初めて利益を得た。次に手がけたプラグの製造は上手くいき業績を伸ばした。松下電器の基礎となった自転車ランプの製造販売には苦労した。売れる商品が製造できたが、買い手がつかず已む無く無料で小売屋に置いて回り評判が高くなって代金回収が漸く出来た。不況に突入し、生産は即日半減したが従業員の給料は全額支給し、代わりに休日も廃止してストック品の販売に努力するという方針を掲げると、2か月余りで在庫を全部売り尽くした。ラジオ界に進出しランプ需要が増える中で、生産者の使命とはこの世に物資を満たし不自由を無くすることだと気付き、これを250年で達成すると決めて25年を1節、10節で完成させることにした。戦時下では木造船と木製飛行機を製造。戦後公職追放のA級に入れられ、社長対人を覚悟したら労組から社長留任の運動が起きた。5年で負債は10億円に対し人員整理も断行。その中でPHP運動を立ち上げた。5年後の30年には業績を着実に伸ばした。昭和27年にはフィリップス社と厳しい交渉の末に技術提携契約を調印。この結果、松下電子工業株式会社が誕生。電子管や半導体の生産を始め、エレクトロニクス応用機器の品質を世界的な水準に高めた。私は経営価値をフィリップス社に認めさせたが、国内事業においても認めてもらっていいと思う。昭和35年1月の経営方針発表会で自由貿易を目前に控え、国際競争に勝つために週休2日の目標を打ち出す。昭和31年に220億円の売上を5カ年計画で800億円にしようという目標を語った時に世間から信用されなかったが、4年で達成した。満66歳を迎えた時に社長を退任し会長へ。正しい経営理念は何が正しいかという人生観に立ち、社会観、国家観、世界観から芽生えねばならない。昭和39年7月に全国販売会社・代理店社長懇談会で有名な演説を3日間行い再び販売第一線に立つ。「青春 青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ 勇気にみちて日に新たな活動をつづけているかぎり 青春は永遠にその人のものである 松下幸之助」85歳の今でも座右に置いている。経営は総合芸術ということをはっきりと認識すべきである。過疎過密問題を解消するため全国各地に工場を建設し、工場のない県は全国で十県だけとなった。大阪の日本万博博覧会で松下館の出品、財団法人飛鳥保存財団を誕生させ、高松塚壁画館の一般公開を実現。80歳で会長退任。昭和50年にもう26年生きる決意をした。明治生まれの我々が第一線を退くのではなく、物心両面の復興のために責任を果たさなければならない。