私の履歴書 山﨑種二(山種証券社長) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和59年2月23日1版15刷

 

  • ①86銭持って上京
  • ②のり巻小僧
  • ③修養時代
  • ④兵隊のころ
  • 米騒動のころ
  • ⑥婚礼直前ブタ箱へ
  • 大正9年の恐慌
  • ⑧石井「借金王」と取引
  • 関東大震災
  • ⑩“山種”初の金星
  • ⑪米の取扱高第一位へ
  • ⑫金解禁前後
  • ⑬2・26事件で
  • ⑭日活の争奪劇
  • ⑮“養老のいで湯”
  • ⑯「成長株」速水御舟
  • ⑰円い校舎で円い教育

 

・郷里は群馬県高崎で百姓の出。明治26年生まれ。高等小学校卒業した16歳の時には一人前の百姓になっていた。汗水たらして働いても米は取れず、債鬼に責め立てられ、父の従兄が深川で営む回米問屋の山﨑繁次郎を頼って86銭だけ持参して上京した。盆、正月、秋祭りの時した食べられなかった米が毎日食べられ仕事もラクだった。百姓時代の苦労が役に立ち、米を握れば産地も分かり何等米かもわかるようになった。米俵を持ち上げただけで何斗何升入りか当てることが出来た。外米汚職事件のとばっちりを受けてブタ箱に入れられ、婚礼の前日に無罪放免となり結婚式を無事挙げられた。回米問屋山繁商店の支配人となり相場というものが分かり出した。関東大震災を機に独立し、30歳で米問屋として出発した。大阪の古米を全部買占めて大金を手にした。更に倉庫の借占めで売買高は第一位となった。辰巳倉庫の社長に就任。息子が通う都立第四中学の深井艦一郎校長から教育に金を使ってくれないかといわれて練馬の富士見女学校の経営に乗り出した。共学には乗り出さず女学校を維持した。(昭和58年8月10日死去)